はら円坐

円坐とは、輪になって座り、場を生きる、というものです。
そこには「守り人」と呼ばれる、場に現れた言葉を聴ききる人がいます。

大阪から守り人橋本久仁彦さんをお招きして、真夏の昼下がり、円坐をひらきます。

はら円坐

日時:2022年8月5日(金)12時半~18時
場所:新豊田駅から約2.5キロの個人宅のはなれをお借りします。お申し込みの方にお知らせいたします。
会費:13,000円 当日橋本さんにお納めください。
会場費:500円 吉橋へ
お申し込み:gclasba@gmail.com
タイトル:「はら円坐 申し込み」
本文:お名前、お電話番号(急ぎの用事の時のみご連絡します。)
※連絡は基本的にいただいたメールにいたします

「人生に肚落ちしているか」
そんなテーマを掲げた場があれば行きたいな、と、長くつきあってくれている友人が言いました。
うん、そうだな…。私も思いました。

何をしている人であろうと、どんな人であろうと
それは根っこのところにある問いではないでしょうか。

考えても考えなくても日々は過ぎていき、そして命は尽きるものだけれども、何かの折にふとその存在に思い至るような。
この夏にそのような場を開かせていただくことになりました。

この場には「人生に肚落ちするためのノウハウ」が準備されているわけではありません。
「会う、というその一点が決まっているだけ」と打ち合わせで橋本さんはおっしゃいました。

これまで円坐に関わらせていただいて、それが一番本質的なことだという感触を持っています。
人生にまつわる問いへの答えは、類型化・一般化できるような質のものではないのだから。

その答えに向かう過程は、人々の環の中で、きっと語るそばから、聴くそばから、刻々と変化し、揺れるものであると思います。
まず、共に居ること。

そして、どれだけ語っても心のなかを表しきれない「言葉」や
言葉以外のなにものかが生まれるのを真剣に見つめること。

真剣に見つめられたものは、きっと、生き生きと、また、辛いものは辛いなりに、動き出すと思います。

こうやって書きながら、なんとも、表現が難しいなあ…って手が止まります。上滑りになってしまうような…。
やっぱり、その場になってみないとわからないです。

***

自分の身には起こらないであろう、過去のものと思ってしまっていた、
実はひとときも絶えてなどいなかった疫病や戦争というものが自分の身に迫るものとして顕在化し、息が詰まる思いをすることが多くなりました。

おじいちゃん・おばあちゃん世代のセピア色だった戦時中の話がにわかに鮮明になり。
戦闘機や輸送機に乗っていた父の、当時の「日常」のことを思い。そこに私はいたわけで。

「過去に起こったことが未来に自分の身に起きるとして、そのような極限の状況において、
自分がどのように振舞えるかを考えると怖い」と橋本さんにお話しすると、
「それは今、起きています」とおっしゃって、意味が分からず、聴きなおしました。

打ち合わせの後、「ソウイウイノチノセトギワニ…」高村光太郎の「レモン哀歌」のフレーズが何度も頭に浮かびました。
調べてみると勘違いしていました。

「あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた」

ああ、「こういう命の瀬戸際に」だったんだな…

「今、起きている。」
日常の振る舞いの意味が変わるこの言葉を繰り返し考えています。

(吉橋)