ミケラと友人たちへ-影舞についての手紙(日本語版)-

イタリア語版はこちらをご覧ください

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ミケラ(Michela Tonello)は、
2015年の大阪の影舞のクラスに通ってくださっていたイタリア人女性です。

とても明るい気さくな人柄で、影舞が大好きでした。
ダークブラウンの長い髪を翻して舞う
彼女のダイナミックな影舞振りは今でも語り草になっています。
現在は日本を離れてミケラのふる里であるイタリアのパドヴァ市に住んでおられます。

「チャオ!ミケラはいろいろあったけど、なんとかなって元気だよ☆今はイタリアです。
最近は影舞を紹介してみたら、めっちゃはまってもらって、
イベントやりたいと言ってくれた人が現れたよ!
イタリアで2日間のリトリートはどうですか。興味ありますか?」

パドヴァのミケラからメッセージを頂いたのは2016年の秋でした。
その後僕もいろいろあって、なんとかなって、今、有無ノ一坐として活動を始め、
ミケラとのやりとりが再開しました。

我々にとっても影舞を言葉で説明することは難しいのですが、
ミケラにとってはもっと困難なことでしょう。

日本語の影舞についての文章を彼女が可能な限りイタリア語に訳してくださるとのことですので、
ミケラやイタリアのご友人たちに向かって影舞の説明をしてみました。

彼女は日本にいた時はイタリア語会話の先生だったのです。

「ミケラへ。
影舞について言葉で説明することが難しいのは祝福であると思います。
影舞は言葉ではなく、目の前の相手と私との「存在の舞い」だからです。

あなたと私の「存在そのもの」は言葉で直接言い表すことができません。
「存在」は言葉よりももっと近くにあるので、言葉で対象化することができないのです。
影舞も、言葉や思考よりもずっと我々の近くにあります。

影舞は、目の前にいる相手と、誠実で真剣な気持ちで向き合って坐り、
お互いにお辞儀をすることから始まります。

お辞儀は、二人の間にあって二人を包んでいる「空間」と、
相手の存在そのものに対して敬意と感謝を捧げる行為です。

お辞儀によって二人の間にあらわれた真剣な空間の中で、
お互いの指先と指先をそっとふれ合わせます。

二人が丁寧に、意識的に相手に向き合うと、
お互いの指先も丁寧に、意識的にふれ合います。

お互いの指先が丁寧に、意識的にふれ合うと、
「自分」という意識の空間が、「相手」という意識の空間と重なってひとつになります。
ふたりの間にあってふたりを包んでいた第三の空間も重なってひとつになります。

その「三重に重なった空間」の中で「何か」が起こり始めます。
相手の指先にふれて影舞を舞っている時の自分は、
ふれるまえの自分とは異なる空間にいます。

ふれるまえの自分とは異なっているのにもかかわらず、それでも自分の空間です。
つまり、その瞬間まで経験したことのない新しい「自分」の空間です。

相手の指先にふれる前も、確かに私自身がいました。
しかし、相手の指先にふれて影舞が始まると、
「ふたり」という名前の「ひとつ」の命ある空間になります。

その命ある空間を「生きているひとつの現在空間」と名付けたいと思います。

「生きているひとつの現在空間」である影舞の舞い姿がとても美しいのは、
それが時間によって滅びない永遠の相を持っているからです。

影舞は、時間を越えた「永遠」という舞台で舞うこと。
あるいは「生きているひとつの現在空間」の中で舞い、生きることです。

影舞人(影舞の空間に魅力を感じるすべての人)にとって「永遠」とは、
影舞の精神的な舞台である「生きているひとつの現在空間」のことなのです。

「永遠」という言葉は古来より無数の人々が実感してきたのに
現代では無味乾燥で抽象的な言葉になってしまいました。

影舞の舞台が立ち上がったとき、背景に浮き上がってくる「永遠」は、
「生きているひとつの現在空間」という「目に見えないからだ」として、
我々の日常生活の真ん中に精神的な血肉を伴って復活します。

日本語の「からだ」という言葉は、「生きている空間」という深い意味を持っています。
「目に見えないからだ」とは、我々のような普通の市民でも生き生きと体験することができる、
精神と身体が溶け合った「生きているひとつの現在空間」のことです。

我々が住んでいる「この世」は歴史的な時間でできています。
影舞を舞う時、我々はこの世の時間の中にいながら同時に
「生きているひとつの現在空間」の中にいます。

影舞人は、この世で舞いながら同時に歴史的時間を超えた永遠の中で舞っています。
ですので有無ノ一坐はお寺や教会、墓地や遺跡、古民家や古い記念碑のある場所で
「口承即興円坐影舞」の舞台を立ち上げます。

日常生活の中の、平凡な、なんの変哲もない場所、たとえば裏道の空き家の前などに
影舞の舞台を立ち上げるとどうなるでしょうか。

影舞を舞うふたりが、まずふたりの間に存在する裏道と空き家にお辞儀をします。
そしてお互いに向き合い、相手の存在にお辞儀をすると、
「生きているひとつの現在空間」が立ち上がってきます。

場が改まった新しい時間と空間の中でふたりの指先と指先がふれ合うと、
影舞の「運び」が起こります。

すると壊れかけた空き家の背景に、
墓地や遺跡のような歴史のある古い場所と同じ波長の空間が重なってきます。

その波長は「生きているひとつの現在空間」あるいは「生きている永遠」の波長と響き合っています。
その刹那、それまで何の変哲もなかった裏道と空き家は

「The secret path」
(ザ・裏道)

「The empty house」 
(ザ・空き家)

となって新たに存在し始めます。

この「裏道空き家影舞」の舞台をたまたま見ていた土地の人々は、
それぞれの個人的な人生の大事な面影が
「生きているひとつの現在空間」「生きている永遠」の中に
期せずして向こうからよみがえって来るのを感じ、体験します。

日常の片隅に存在する平凡な風景や、常識の中で暮らしている我々の心や魂が、
「永遠」の波長に共鳴し、日々の暮らしの中にまったく新しく存在するようになること。
これが日本人の魂を持つ我々有無ノ一坐が実践している民衆芸能としてのretreat(リトリート)です。

一坐が仕事をするときは「口承即興円坐影舞 有無ノ一坐」と名のっています。

地上での感覚的な事実や経験はすべて、はかなく無常に過ぎ去ります。
しかし我々の生きる態度、つまり人生の物事や他者への向かい方によって、
感覚的、物理的なもの、すべての地上的なものは、精神的、彼岸的なものに変容します。

我々の在り方、関わり方によって地上的、感覚的な世界は精神的、彼岸的な世界に移行します。
日本語ではそれを「他界する」と言います。
日本語の「他界する」はこちらの世界からまったく別の、他の世界へ移行するということです。

ベクトルを反転させてみましょう。

まったく別の、他の世界としての精神的な世界が向こうの方から地上にやってくる、
という味わいを持つ庶民的な日本語のひとつに「満ちる」という言葉があります。

日本の高知県や広島の田舎に残る方言では死ぬこと、すなわち「他界する」ことを「満ちる」と言います。
「満ちる」とは100パーセント豊かに充足すること、あふれるような喜びをもって存在することです。

日本では人生を豊かに生き、満ちあふれて他界して往きたいという願いを込めて、
個人の名前としてもよく使われています。

我々は、ネイティブ・ジャパニーズとして、
「生まれてこの世を生き」
「死んで他界して往くこと」は
「最高に豊かになること」
であるという素朴な信念・信仰をもっています。

この肉体が滅びて消え「精神の私が他界する」時こそ、
生命の豊かさが最高になって満たされる時である、
100パーセント豊かな生命で満ちる時であるという精神的な感覚を持っているのです。

日本の地方の年配の方々は、他界することを「お迎えが来る」と表現します。
この表現には日本の仏教の影響も浸透しています。

何か安らかな、無限に豊かで平和な存在と世界が向こうの方から
「迎えに来る」という精神的な直観です。

影舞の舞台を愛し、影舞の舞台を「リトリート」と呼んでくださるミケラに、
影舞の説明としてお伝えしたいと思うのは以上のようなことです。

これが我々有無ノ一坐が実践現場で日々切り開きつつある仕事の道筋です。

現代のイタリアで人生を生き抜いておられるミケラと親愛なるご家族ご友人たち、
そして日本に住む我々や世界中のすべての人々が、
「生きているひとつの現在空間」という精神の舞台の上で共に舞いを交わす楽しみ。

時間を超えた永遠の、
他界の豊かさに満ちあふれる超時間と超空間の中で初めて出合うということ。

別々の民族に生まれ、別々の場所に住み、
別々の言葉を話しているのですからお互いにまったく初めての、新しい出合いです。

にもかかわらず、それはとても懐かしい、久しぶりの、永遠振りの出合いです。
ミケラはこの感覚をよくご存じですね。

有無ノ一坐は、我々がまさにこの現代に、
人間として現に生きて存在しているという不思議な出来事を、
宇宙的な、究極の舞台芸術であると考えています。

円坐舞台や影舞舞台はその考えが命と形を持ち、
小さな民衆芸能の様式として日本に現れたものです。

守人(円坐や影舞の場を司る人)は、まず「円坐」に坐って人々の大切な人生の歌に耳を傾けます。
たとえ短い時間の円坐であっても、守人はひとりの人間として円坐衆の中で一緒に暮らし、
真剣に生き合います。

すると我々の目に見えないからだ同士が時間を越えて交流し、円坐の深みから影舞の花が咲きます。
参加した坐衆は、まるで何年も前からその場を知っていたような感覚になります。
そのような円坐の中にはイタリア各地の色彩豊かな、懐かしい風景が重なり込んで来るでしょう。

懐かしい風景の中には必ず懐かしい人々の姿や面影が映っています。
円坐や影舞の舞台現場では、それは単なるイメージや想像ではなく、
肉体の眼には見えなくても存在を確信することができる「精神的現実」です。

日本ではその精神的な現実を古来より「心魂」と呼んでいます。
ふたりの人が敬意と真剣さをもって影舞を舞うと、その影舞空間に向き合う者は、
大いなる永遠のふるさとから訪れてきた心魂たちの影の舞いを見ることになります。

その時、円坐や影舞の小さな舞台がひときわ輝きます。
「照らし」と呼んでいるその透明な精神の光が円坐や影舞の舞台照明です。

影舞の「影」は

the shadow of emptiness(空っぽの空間の影)

影舞の「舞」は

the dance of spiritual land(精神のふるさとの舞い)

と英訳してみました。

影舞は英語の直訳では「shadow dance」ですが、
イタリアの方々にも「KAGEMAI」と日本語で呼んでいただくのがよいように思います。

やがてふさわしき日に必ず有無ノ一坐として皆様にお目にかかりに参ります。
とても楽しみです。

世界ではいろんなことが起こっていますが、
ミケラ、また会う日までくれぐれもお元気でね。

口承即興円坐影舞 
有無ノ一坐 橋本久仁彦