九州福岡円坐2つご案内(第三回道即是空相聞円坐@博多・「今日の円坐 渡にて」)
6月後半は九州福岡での円坐舞台が目白押しとなりました。
合計6つ、6日間の円坐影舞の舞台を開催いたします。
円坐はそれぞれの土地でまったく異なる円坐舞台となります。
既成の理論やメソッドを持たないので「流通」や「消費」には適さないと思いますが、
その代わりシンプルに、ただのひとりの人間として「ライブ参加」することができ、
ナマの人格と個性とリスペクトだけがある未知の人間関係を味わう醍醐味があります。
それでも円坐っていったい何なのか?
何か手がかりはないのでしょうか?
一番良い手がかりは、円坐を開催する人間が発信するご挨拶の言葉です。
どの文言も主催者や守人が精魂を込めて記した実体のある言葉です。
円坐の正体とは「言葉の実体」なのです。
円坐は、主催者と守人と円坐衆によって100パーセント自治区となります。
どんな人間がそこに坐り、どんな言葉を発するかがすべてです。
彼らの存在とその言葉が、その土地とその時間に発生した唯一無二の円坐舞台の創始者です。
12日の「第三回道即是空相聞円坐@博多」の主催者と守人の間には、たった今すでに、
ふたりの対峙と仕合から生まれる緊張感があふれています。
このふたりの「真剣な意識」が創造する円坐に坐るために、
地元の有志はもちろん大阪や東京、千葉からも飛行機で駆けつける円坐衆がいます。
まるで甲子園の高校野球みたいですが、
このような主催者と参加者との関係こそ「円坐芸能」の特徴と言えるでしょう。
円坐は理論やメソッドには基づかず、
個人と個人の全人格的な人間関係に基づいて成立するということができます。
「第三回道即是空相聞円坐@博多」の個性的なご案内文は以下です。
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6月19日20日は、福岡県福津市での円坐舞台です。
主催の都郷なびさんの開催の言葉と守人の言葉を掲げます。
こちらには上記の相聞円坐とはまた大きく異なる精神性があらわれています。
各地で連続的に開催される円坐がまったく新鮮さを失わない理由は、
それぞれの円坐がその土地や風土に融けあって、他のどこにもない独自性と個性を発揮しているからです。
「今日の円坐 渡にて
『おはよう』
抱きしめる我が子の身体が温かい
今日もいのちをいただいた
近所のおじちゃんが先月亡くなった
奥さんの四十九日が過ぎたら草鞋を作ろうと何度も電話がかかってきていた
最期のお別れがしたいと六歳の娘が言った
今日も私は生きている
家族を想って作る時間が好きだからと
台所でいろんなものをこしらえる
いのちを繋ぐ種であってほしいと
在来種の種から米も野菜も育てようとする
土の上もままならないのに
土の中の改善をしようと溝や穴を掘る
「何でそこまで」と呆れた表情を向けられることもある
楽な道はいくらでもある
でも、私は楽をして生きたいわけではない
子ども達のまっすぐな眼差しの中にいる私を
力強く生きたい
毎日が円坐
生活が円坐
大阪より有無の一坐の橋本久仁彦さん、松岡弘子さん、橋本仁美さんをお招きして円坐舞台を開きます。
緑深く、たくさんの生き物の声が聞こえるこの場所で円を囲めると幸いです
都郷なび

今日の円坐 渡にて
とき:6月19日(水)、20日(木)
時間:10時〜17時
場所:日々の家、渡の山
料金:3万円
持ち物:水筒、昼食、帽子、タオル
申込み:氏名、連絡先(メール、電話番号)を記入の上、都郷なび(info@tanenoki.net)まで申込みください。
「今日の円坐 渡にて」に寄せて。
6月、有無ノ一坐は、福岡県福津市の 「今日の円坐 渡にて」 に参ります。
主催の福津市渡在住、都郷なびさんは「円坐」との出会いを通じて
「日常の生活者であること」に新たな意義と誇りを自覚し、
「誇り高き生活者の円坐」を立ち上げるにいたりました。
「口承即興円坐影舞 有無ノ一坐」は、
生活者のハレの舞台である「ふるさと円坐街道」に生きる
旅の者、道の者として、日本各地の誇り高き生活者と出会い続けています。
有無ノ一坐は常に旅の者であるにもかかわらず、
生業としている円坐は「土着」と呼ばれます。
役割や概念の関係ではなく、互いの生活者としての
生き様のすべてで対峙し、仕合い、付き合うからです。
円坐における人と人との関わりは、
土地と歴史の関わりと切り離すことができません。
円坐に坐る者は「個人主義」や「個人の権利」が
近代の人工的な概念であることを発見します。
円坐では概念としての「個人」ではなく、
土地と歴史を貫いて存在する生活者としての「わたし」があらわになります。
この「わたし」とは全体の支配に甘んじる「個人」ではなく、
何者も支配することのできない唯一無二の「わたし」のことです。
唯一無二とはたったひとつしかない独自性のこと。
我々は無数の「個人」の一人ではなく、世界でたったひとつの「いのちあるわたし」です。
都郷なびさんからのメールに
「昨晩、静明(一歳)が窓の外を眺め 『くにちゃん いる』と突然いいました。
彼は何かを受け取っているようです」
とありました。
「いのちある」を略せば「いる」です。
「個人主義」に分裂し、概念と感情が分裂し、
そのあわいを電子情報や本の知識で埋め続ける現代人にとって
ただ「いる」ことはもはや困難になっています。
このわたしが「生きて」「いる」ために必要な生きた思考は、
静明君の「くにちゃん いる」が示しています。
「彼は何かを受け取っているようです」
彼は生きた表象(ことば)を受け取ったのです。
この表象が「生きたことば」「生きた概念」になります。
生きたことばは大阪に住む僕まで「生きたまま」届きます。
こうして僕が福岡県の渡まで出向く旅は、
僕にことばを送ってくれた静明君となびさんに会うための円坐旅に変容します。
博多の道即是空相聞円坐と同じく、個人的で具体的な人間関係が
「円坐芸能」の骨組みになっていきます。
この国には、ただ生きている人間と人間の
「生活者」としての付き合いと関わりがある。
そこには理論もメソッドも介在しない。
だからこそ、その関わりは生死を越えて永続する。
「先月亡くなった」近所のおじちゃんも静明君にとっては 「おじちゃん いる」し、
六歳の娘さんにとっても「おじちゃん いる」のです。
ことば、すなわち思考と概念は人間の生々しい生き様と生活から切り離せません。
生き様から離れると思考は抽象化し、干からびて、死にます。
「土の上もままならないのに 土の中の改善をしようと溝や穴を掘る」
有無ノ一坐が日々実践している円坐守人の仕事となんと似ていることでしょうか。
表面的にはきれいにみえる人間関係をまわりのその他大勢に見せてイメージを作り
「擬態」するような生き様があります。
それに対して、土中深くの根っこまで関わりを深め、
互いの人生に本当に根付き合う関係があります。
これは「共依存関係」ではなく「協創」です。
こうして、いわば「土中の人生関係」を創造し、生きるのが円坐芸能の文化です。
ゆえに円坐は「土着」と呼ばれているのです。
円坐を「縄文」と呼んだ方もいます。
円坐守人の仕事を「気圧の谷を作る仕事」と言った方もいます。
気圧の谷は風を生み雨を降らせすべてを循環させて土地を豊かにするからです。
静明君が住んでいる玄界灘に面した集落「渡(ワタリ)」は、渡り往く人や動物の命の旅路を指す言葉です。
そして目に見えぬ「イノチ」をこの世に「渡し」残すことが「わたし」という唯一無二の生活者の仕事です。
ひとりの生活者であることの誇りと、 円坐に坐る土着のわたしの
「ただのひとりの本物であること」
を、春の喜びを鳴き交わすウグイスのように高らかに、
九州の地の仲間と全世界の大きな空に向かって歌い上げて参ります。
口承即興円坐影舞 有無ノ一坐 橋本久仁彦
このたび都郷なびさん主催の「今日の円坐 渡にて」の守人一味として
大阪から参ります、有無ノ一坐の松岡弘子と申します。
よろしくお願いいたします。
このご挨拶を書いているわたしの今日は、
朝と夕、二回、高槻の山間部の萩谷にある施設へ義兄のお迎えと送りに行きました。
平家の落人村もある自然豊かな土地で、鶯や鳥が絶えずさえずり、
濃くなった新緑の葉をつけた木が風に揺れ鳴っていました。
義母は先週のお迎えの朝、わたし死ぬるかもしれないの、と言って、
気分も塞ぎ、お迎えには行かない!と言ってきかず、
仕方がなく義父と二人で、萩谷に行きました。
ところが、今日は朝からいつもの明るい声と表情で、
ほっとしたのも束の間、実は、朝から義父母は、大喧嘩をしていました。
お義母さんはタイミングよくバッチリ思った事を言うので、
義父は、買い物や家事までやってるのにという気負いがあり、
歯切れも悪く、雲行きのあやしい戦況でした。
とうとう今週は義父の方が迎えに行かず、
散髪に行くから先に下ろしてくれ、と言うのでいつもの散髪屋に送って行きました。
それでも、夕方にはすっかり忘れて、
義父母そろって車に乗り、萩谷に送りに行きました。
義母は「いまはね、コロナとかで話す人いなくなったけど、
あっちに行ったらね、みんな集まって話したい事いっぱいあるのよ」と、
今日は大笑いしていました。
車での待ち時間にふと義父がわたしに
「なあ、真理というものは、自然のなかにあるのか。
それとも人間の作ったものにあるのか。どっちや?」と尋ねてきました。
この施設は元々、親たちが集まって、何年も話し合い、
苦労して作った施設です。だから自負もあります。
でも、わたしは「人間と自然を分けられないから、どちらも真理やと思います」と答えました。
車に戻ってきた義母は「わたし達はこの子を神さんから預かってるのよ。凄いのよ」
と大笑いしています。その言葉の深い意味はわからないですが、
義兄を見ていると本当にその通りだと思います。
今日の義兄の存在は義父母の精神そのものだからです。
最近は円坐で日曜の送迎に行けないわたしの代わりに
息子の大貴が祖父母を車に乗せ叔父の送迎をしています。
どんな話をしてるのかわかりませんが
想像を超えるやりとりが車中で交わされていることだけは確かです。
「面白いで」と言ってるからです。
世代や時代は違えども、魂の深いところで響き合う、
実体ある言葉というものがあります。
相手と向き合い、相手の前で本当に存在するということに尽きると思います。
土の中は、いのちでできています。その土に、人と人がいるのです。
人のなかにいのちがあるのではありません。
土に、しっかり根を生やした人と人の間に、いのち(ご縁)はあります。
いのちで結ばれた仲間とともに、
円坐というご縁の坐舞台ご一緒しましょう。
お会いできるのを楽しみにしています。
有無ノ一坐 松岡弘子