第二回玉乃井円坐:生き様の探求

「第二回玉乃井円坐:生き様の探求」

日 時:2024年6月22日(土)13:00-16:00
参加費:4,000円
場 所:人文系書店ヒカリノスミカ(福岡県福津市津屋崎4-1-13海のほとり玉乃井2階)
申 込https://forms.gle/uoQiBzkZZGgw8LLcA

口承即興円坐影舞 有無ノ一坐 
橋本久仁彦より

津屋崎の「人文系書店ヒカリノスミカ」店主、野尻暉と
大阪の「口承即興円坐影舞 有無ノ一坐」坐長、橋本久仁彦が、
第2回目の「玉乃井円坐 生き様の探求」を開催することになった。

先日、野尻暉から送られてきた第2回玉乃井円坐の挨拶文(後段に掲載)
を拝読して橋本久仁彦は思った。

「円坐で行われる対話」と野尻暉は言う。
哲学者の言葉を引用して、円坐はその哲学者の言う「狭義の対話である」とも言う。

いったい「対話」とか「対話の場」とは何だろう?
橋本久仁彦は、野尻暉と橋本久仁彦自身に向かって問いかける。

たとえば「対話の場」の主催者や「ファシリテーター」が、
集まった参加者「全員」に対してまず「肯定的な」笑顔を向け、
「全員」で「対話」することの意義を説明する。

「対話の場」では「全員」の気持ちや思いが「誰ひとり否定されない」ような
「場を作る」ことを「大切にしたい」と「全員」に「提案」し、
そうするのは「全員」がお互いの意見や立場を「尊重し合い」、
その結果「生産的な」「対話の場」を「実現」するためであるという
「事前合意」を「全員」で形成する。

ファシリテーターが「必要」だと判断すれば
「全員参加」が条件のワークや実習を「全員」に提案し、
「全員でワーク」して、「全員でしたワークの体験」を「全員で共有」し、
「全員による」「全員のための」「対話の場」の意義を再度
「全員で共通認識」し「コンセンサス」を作る。

さらに他人を「傷つける」ような表現や、対話の場に対して
「リミットを超えた」「言動」をする人が「全員」の中から「生まれてこない」ように
「ゲーム」や「ボディーワーク」などの「ウォームアップ」や「アイスブレイク」を行なって、
「全員」で「楽しく」「受容的」で「肯定的」な「グループ環境」を「場づくり」していく。

「対話の場」の「進行責任者」である一人または複数の「ファシリテーター」が、
「全員」にとって「心理的」に「安全」な「対話の場」の「環境」を
「場作り」するために「 共感的」「肯定的」に「全員」に対して「傾聴」し「配慮」する。

ファシリテーターは「全員」の挙動や発言に「注意」を怠らず「見守り」、
発言が「誰かに偏らない」ように「観察」し、「全員」に対し「平等」に「寄り添う」。

こうして参加した「全員」が「誰にも」「否定されず」「安心安全」に「対話」できて、
参加した「全員」が「満足」するような「全員」のための「対話の場」が「ファシリテート」される。

ここで使われる「ファシリテーション」と言う言葉は、
ラテン語のファシリス(容易に)とエイト(する)を語源とし
「労力と時間を最小化し、多数の人々が速やかに理解して効率的に行動することを最大化する」
という意味を持っている言葉である。

「安心安全」に誰も「否定されず」、誰にも「分かりやすく」、
誰もが「難しさや抵抗を感じない」ように「ファシリテーター」が
「ファシリテート」するのはすべて参加者「全員」の「利益」のためであり、
「全員」にとって有意義な「全員」のための「対話の場」を
「限られた時間内」で「実現」するために行われる。

その「技法」を「ファシリテーション」といい、
その「技法」の「専門家」を「ファシリテーター」と言う。

こうして「対話の場」を実施した結果、参加した「全員」が「お互いに信頼しあって」
「対話」に参加し「有意義な」「対話の場」が「成立」したことを、
「発注」を受けた「組織や団体」に「事業成果」として「報告」し、
「講師」や「ファシリテーター」として「報酬」を得る。

このような「対話の場」がもし存在すると仮定した時、
その「対話の場」の主催者やファシリテーターは、本当は何をしているのだろうか。

自分の存在や自分の人生の「生き様」から生まれた意見や考えを、
自分自身のものとして責任をとり、自分で意を決して、あえて他者に対して発言し、
人生態度を明確にする行為の真剣さと純粋さとかけがえの無さは、

「あらかじめ事前に対話の実現を準備され、対話の内容に関わらず事前に尊重され、
反感や敵意ではなく共感され、否定や攻撃ではなく肯定されて安心安全な雰囲気が
事前に意図されている状況」の中で、
その真剣さと純粋さとかけがえの無さを保つことができるのだろうか。

あるいはそもそも「真剣さ」や「純粋さ」や「かけがえの無さ」といった
個人の「存在の尊厳」は、あらかじめプロセスを予測設定し、
安全と効率と生産を意図した「ファシリテーション」の中に発生することができるのだろうか。

自分とは根本的に異なった価値観を持ち、異なった人生と異なった
「生き様」を生きていて、だからこそ成立するはずの「他者と対話する」という
非日常的な行為を選択するために必要なことは何だろうか。

そのような「対話」には、自己責任による明確な対話への意志と
「他者」という「未知」に向かい合うための勇気と真剣さが不可欠である。

個人的な深い付き合いや強い絆がない「ファシリテーター」を
「ファシリテーション」や「ワーク」や「エクササイズ」によって「全員が信頼」し、
「全員の心理的な安心と安全」を「全員が保障」され、そのことに「全員が同意」するように
「ファシリテート」されることは、我々の魂の「唯一無二」の「尊厳」に対して
いったいどんな影響を与えるのだろうか。

それとも「肯定されること」や「安心できる雰囲気」は、
参加者ではなく対話の場の主催者やファシリテーターが必要としているものなのだろうか。

全員の安心感や肯定感の保証が「他者」との「対話」より優先されているとき、
それは何を意味するのだろうか。

「全員としては同意」しているのに、ひとり一人の個人はその魂の中で
違和感を感じているという野尻暉が指摘する社会状況は、
「商品価値」として安心感や安全を優先し「否定性」や「傷つくこと」の存在を
「否定してみせる」様々な無数のグループの「広義のファシリテーション」や
「プロパガンダ」によって生まれるのだろうか。

また、通常の人間関係において「肯定感」や「共感」や「安心感」や「安全であること」
を事前に必要とする人間とは、いったいどんな人生態度や生き様の人間なのだろうか。

「ファシリテートされ全員が効率的に安心安全に実践でき、
期待される議論をすみやかに実現する対話」と
「円坐における対話・対峙・仕合いを通じて自分とはまったく異なった
特定の他者に偶発的に出会い、今までの自分が刷新されて
過去に経験したことのない新たな人間関係と絆を未知の衝撃とともに創造してゆく体験」
との間には、何か接点があるのだろうか。


人文系書店ヒカリノスミカ店主、野尻暉は言う。

「短く、わかりやすく、配慮の行き届いた薄っぺらい言葉にあふれたこの世界で
虚構の誰かのための言葉ではなく、魂をこめた自分の言葉を発することは大変困難なことです」

なぜ「魂をこめた自分の言葉を発すること」が「大変困難なこと」なのだろう。
「魂をこめ」ているのに「大変困難なこと」になることがありえるのだろうか。

それは本当に「魂をこめ」ているのだろうか。
野尻暉にとって、具体的などんな状況が「大変困難なこと」なのだろう。

あるいは「特定の誰かの前」では「大変困難なこと」になるのだろうか。
さらに「魂をこめた自分の言葉を発する」とはいったいどんな事態のことを言うのだろう。

円坐が対話の場でもあるなら、津屋崎で行われる
「玉乃井円坐 生き様の探求」
では「魂をこめた自分の言葉を発する」ことができているのだろうか。


「それでもわたしは抗いたいと思います。
なぜならとても気持ち悪いからです。
いのちの在り方として違和感があります。
不自然だと思います」


これは独り言だろうか。
野尻暉はこの言葉をいったい誰に対して言っているのだろうか。
伝えるべき特定の誰かに直接伝えなければ、これらの言葉は亡霊のまま漂うことになるのではないだろうか。


「われわれは、表面的な言葉によって自分ではなく客観性や理性ばかりに語らせ、
相手に踏み込まないことに慣れてしまって、自分に踏み込まれることも毛嫌いして、
真理と遠ざかっているのではないでしょうか。」


これまでの文脈から「われわれ」とは野尻暉自身を指し、
共同主催者の橋本久仁彦も含まれると思われる。


そこでこの文章を読み込んだ橋本久仁彦が、
野尻暉の同意を得て「第2回玉乃井円坐 生き様の探求」のために改めて記述したい。

野尻暉と橋本久仁彦は、自分自身が喜ぶ言葉ではなく、
SNSを見るたくさんの人々や、自分の利害に影響を与える権力のある人間や
組織が喜ぶような「表面的な言葉」を使って長い年月を生きてきた。

そのため「魂をこめた自分の言葉を発する」のではなく、
多くの人々が肯定してくれそうな「短く、わかりやすく、配慮の行き届いた薄っぺらい言葉」を、
社会的権威のある他人の言葉を使って作り上げ、
たったひとりしかいない自分自身が本当に感じている違和感や衝動を隠して「理性ばかりに語らせ」た。

相手の真実に踏み込むとどうしても自分の本心も露呈するし、
人々の機嫌を損ねると社会的に孤立するし、組織の利害に合わせないとお金ももらえないし、
せっかく築いた仕事の評判や地位も失う。
そんな思いから生じる不安と恐怖と空しさを理性で合理化して生きてきた。

そうして年月を過ごすうちに「相手に踏み込まないことに慣れてしまっ」た。
そして「自分に踏み込まれることも毛嫌いして」生きるようになった。

その結果、当然のことながら「魂をこめた自分の言葉」と「真理」は遠ざかっていった。

遠ざかって行った「魂をこめた自分の言葉」と「真理」は、
渡在住の戸郷なび氏や津屋崎在住の柴田冨美子氏ら地元の方々の願いに
呼ばれて昨年成立した「津屋崎円坐」の体験を通じて再び戻ってきた。


「それでもわたしは抗いたいと思います。
とても気持ち悪いからです。
いのちの在り方として違和感があります。
不自然だと思います」


という言葉に宿っていたのは「津屋崎円坐」の「対話」によって
明確になった野尻暉のいのちと魂の「ヒカリ」であった。
円坐における対話の言葉は意味より先にヒカリを発する。
我々にとって「言葉」は、正しく「ヒカリノスミカ」である。


今、野尻暉と橋本久仁彦は
玉乃井旅館の先代で津屋崎文化の担い手である故安部文範氏や
津屋崎の恩義ある住人たちの魂に向かって宣言する。

「我々はたとえ誰に対しても、必要なら自分の気持ち悪さを表現する。
我々は違和感を言葉で表明し、その上で抗うべき相手や状況に抗う。
我々は他者や全体にではなく、自分自身の魂といのちの在り方に従う。

我々は他の何を手に入れる為でもなく
自分自身の自由と自然を生きるために生きる。

我々は、以上のような『生き様の探求』が、他者と自分のいのちの尊厳を認め、
真の対話と強い絆で結ばれた人間関係を育むために、必要不可欠であると確信している。

人文系書店ヒカリノスミカ店主 野尻暉より

4月22日に第1回目の「玉乃井円坐:生き様の探求」を行いました。
参加いただいた方々にはあの場で真摯に向き合っていただいたことに感謝いたします。

第1回目がひらかれる数日前、中島義道『「思いやり」という暴力:哲学のない社会をつくるもの』という本を読みました。そのなかで対話に関する言及があります。円坐で行われる対話は中島の言う狭義の対話と思われます。

優秀な討論者ははじめは原爆投下の賛成派に属し、後に反対派の立場で語り、いずれにおいても最高点を得ることも可能である。だが、狭義の対話、すなわち私がここで提唱したい哲学対話とはこうした討論ではない。みずからの生きている現実から離れた客観的な言葉の使用法はまったく<対話>ではない。<対話>とは各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観にもとづいて何ごとかを語ることである。

中島義道『「思いやり」という暴力:哲学のない社会をつくるもの』より

虚構の誰かのための言葉ではなく、魂をこめた自分の言葉を発すること。
短く、わかりやすく、配慮の行き届いた薄っぺらい言葉にあふれた
この世界でそのように生きるのは大変困難なことです。

それでもわたしは抗いたいと思います。なぜならとても気持ち悪いからです。
いのちの在り方として違和感があります。不自然だと思います。

なぜこのような感覚を抱くのか。その答えのひとつをまた『「思いやりという暴力」』から引用します。

人びとは、「なぜ差別は悪いのか?」「なぜ人間は平等でなければならないのか?」「なぜ障害者や外国人を差別してはいけないのか?」「なぜ、セクハラは非難されるのか?」「なぜ、環境問題を考えなければならないのか?」という問いを発することをやめた。なぜなら、その問いを発することそのことが禁じられているからである。このような空気の中で、哲学は枯渇していく。カントがよく見ていたように、哲学は人間が(自他ともに)幸福になりたいという強烈な欲望のうちで枯渇していくのである。幸福よりも真実を(それが何かさしあたりわからなくても、理念であろうとも)優位にしなければ、哲学は枯れていくのだ。

中島義道『「思いやり」という暴力:哲学のない社会をつくるもの』より

哲学という言葉を出すと、小難しいことのように受け取られがちです。
実際、哲学を小難しい変人の領域にしてしまったのはよろしくないと思います。
わたしも学問としての哲学はあまり興味がありません。

小難しい話は専門家に任せて、自分のなかや社会に蔓延る違和感や不自然さに
気づいてしまった人間が、それと向き合い続けること、考え続けること、
同志と切磋琢磨し、真理を探究し続ける生き様そのものを哲学的精神と呼びたいです。

われわれは、表面的な言葉によって自分ではなく客観性や合理性ばかりに語らせ、
相手に踏み込まないことに慣れてしまって、自分に踏み込まれることも毛嫌いして、
真理と遠ざかっているのではないでしょうか。
それもまた人間という生きものの自然の摂理とも思いますが、
自分の魂が発する違和感に従い、自然な状態を目指し抗うくらいの自由は人間に備わっていると思います。

そんな同士と生き様を磨く時間を共にできることを願い、再び玉乃井円坐をひらきます。



「津屋崎・玉乃井円坐 生き様の探求」

主催
人文系書店ヒカリノスミカ店主 
津屋崎在住 野尻暉

口承即興円坐影舞有無ノ一坐 
大阪在住 橋本久仁彦