姉弟円坐+(プラス)
前年の石切円坐守人稽古
にご参加くださった加倉井拓夫さんと
有無ノ一坐 橋本仁美・悠の3人守人で
千葉で円坐を開催します!
姉弟円坐+(プラス)
日時:8月4日(日)10時〜17時
場所:JR千葉駅徒歩圏内
(詳細はお申し込み後にお伝えします)
円坐守人:加倉井拓夫・橋本仁美・橋本悠
参加費:1万円
申込先:下記アドレスまでご連絡ください
enzakeiko.hk@gmail.com(加倉井)
【ご案内文 橋本悠】
いつもお世話になっております。
有無ノ一坐で個人セッションや円坐の守人をしている橋本悠です。
今年も猛暑の毎日ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
不定期で開催している橋本仁美と橋本悠が守人をする姉弟円坐ですが、今年の8月4日(日)に加倉井拓夫さんを交えて姉弟+加倉井円坐を開催します。
今回共に守人をすることになった加倉井さんと初めて出会ったのは昨年の1月頃に開催した姉弟円坐で、その後石切守人稽古にも参加して下さりたった一年と半年前ではありますが既に感慨深い気持ちがあります。
円坐では、参加者と主催の守人の数名で円を囲むようにして座り、決まった時間を共に過ごしていくうちに出てくる言葉や感情のやりとりをして、時には対立や調和や大勢が長時間一緒にいるのに何も起こらなかった(起こさなかった)ということが起こったりします。
この円坐という限定された空間と時間で取り扱うものは人間関係ですが、面白いのは人間関係とは人間という生物(なまもの)同士がお互いに響き合い影響し合うことで徐々にはっきりとしていく点で、必ずしも合理的に考え感じ動けば上手く健全に進むというものでは無いということです。
時間をかけすぎれば腐るし急ぎすぎればうまく受け取れない。頭でわかっていても身体や感情が動かない。
私も感じたことがありますが、似たような経験をされた方は多くいるかと思います。
それは自分自身のことや自身の人間関係などで悩まれている方は、合理的に捉えられているのにその通りに話が進まない、もしくは今自分を取り巻いている現象や環境が自分には辻褄が合っているように感じられないというような点ではないでしょうか。
今回の円坐では参加者が複数いらっしゃいますので、特別そういった個人の悩みや感情にフォーカスしていく時間はとれませんが、多くの他者と触れ合い適切な自分の反響を知ることは自分という人間の輪郭や精神性に近づく機会になるでしょう。
こういった他者との出会いで自分のエゴや本音、無意識などを少しずつでも知っていくことで自分という生物(なまもの)の動きを知るきっかけになると思います。
自分のことを自分がよく知って初めて、ご自身の悩みや問題に対峙していく準備が整ったり、自分自身に問うといったことができるでしょう。
それでは、皆様のご参加を心よりお待ちしております。
橋本悠
※もしさらに自分自身へのフォーカスを深めたい思われる方は個人セッションがあります。
円坐でもっと他者と触れ合いたいと感じられる方は円坐の案内もしております。
いずれについても有無ノ一坐のホームページをご覧くださいませ。
〈有無ノ一坐 https://umunoichiza.link〉
【ご案内文 加倉井拓夫】
先日、ある円坐仲間とのやりとりの中で"関心とエネルギー"という言葉がでてきました。
なにかに関心を持つとそれをやってみようというエネルギーが湧く。そしてそこからそれを実際やってみるという行動が生じるかもしれない。この"エネルギー"は、他にも、"やる気"とか"気力"とか"モチベーション"とも呼ばれると思います。
このように先にモチベーションなどがあってそこから行動が生じるというモデルは、別のいい方をすれば、モチベーションを「原因」、行動を「結果」ととらえているともいえます。
私はここ1年半ほど円坐に足繁く通い、自分でも主催するという行動を起こしています。だとすると、先程の理論でいけば、その行動の前にモチベーションとか関心やエネルギーといった原因があったことになります。
確かにそういうものもありました。
私が円坐をはじめたのは、オンラインで円坐について語る橋本久仁彦さんをみたのがきっかけでした。その時の橋本さんに感じたのは、風通しのよい広い場所で呼吸している人という印象でした。だから「橋本さんがかもしだす、あの呼吸しやすそうな感じはなんなんだろう。」これが私が円坐に抱く関心だといってもいいと思います。
しかし、1年半の円坐という自分の行動の全ての原因をこの関心のせいにできるとも思えません。
その理由のひとつには、円坐、または有無ノ一坐、あるいは橋本久仁彦という人が、こういう安易な関心にはこたえてくれない、ということがあります。
橋本さんは繰り返し繰り返し、円坐はなんらかの知識やノウハウなどを提供するセミナーのようなものではない、と口を酸っぱくして強調します。だから彼がかもしだす呼吸しやすそうな感じを手に入れるためのノウハウなどは、もし万が一彼がそれを持っていたとしても、絶対に提供してもらえはしないでしょう。
だから円坐という行動の原因がこの関心のみにあったとすれば、もともと堪え性のない私など、とっくに心が折れているに違いありません。
ではなぜそんな私でも円坐という行動を起こし続けているのか?
少し視点を変えてみます。
有無ノ一坐の仕事に触れている方はご存知の通り、未ニ観や未ニ観レビューでは録音を残します。いま私の手元にも、1年半の間に作った音源が多数あります。その中には橋本久仁彦さんや松岡弘子さんはもちろん、今回共に守人をつとめさせていただく仁美さんや悠さんを聞き手とする未ニ観やレビューもあります。
この案内文を書くにあたって、おふたりとの音源を中心に聞き返してみました。今年3月の悠さんの個人セッションでは、私の未ニ観に対して悠さんから、「悩みがない感じに話してるけど溌剌としてない。」「言ってることは自由を求めているんだけど、やってることは束縛を求めてるように聞こえる。」などの言葉が飛んできました。また4月の松岡さん主催「聞く稽古」の中での、私の未ニ観への仁美さんのレビューは、声の音量や音程といった彼女特有の"音"の観点からなされました。
いまこれらの録音を聞き返すと、もう過ぎ去ったはずの過去の声が、紛れもない今・ここの現在に鳴り響き、新たな認識を促してくるのを感じます。しかし同時に今の自分は、過去の爪痕(悠さんの言葉、仁美さんの視点)の影響なしに、これら過去の音源に触れることはできません。なぜならその音源がうまれたその場で起きたこと、またその時その場で自分がなんらかの印象を受けたという事実はもう変えることができないからです。
この動かし難い痕跡として刻まれている過去の事実。これこそ自分が、円坐の時間空間をくぐり抜けてきたなによりの証だと思います。
そして今こうして現在の認識を案内文に書き表している自分は、円坐に出会わなければ決して立ち至ることのなかった自分です。
円坐に通いはじめた頃の自分が、もっと呼吸しやすい自分を求めていたとするなら、いまの自分はあの頃よりは少しだけ広い世界の空気を吸っています。こういうささやかな手応えこそが、「円坐を簡単に手放すわけにはいかない」と私にうったえてくるのであり、その心の声(本能的な直感?)が私を次の円坐へと向かわせます。
個人的な経験からいえば、円坐を通して自分のなにかを変えたいなら、変えるためのノウハウを手に入れようとしてもだめで、円坐の人間関係に揉まれながら新しい自分になっていくしかない。そしてそうやって「気づいたらこうなっていた」という現実を生き抜くことで、己の精神に「事態がそうなったことの原因と結果」として客観的に把握して済ますにはあまりにも具体的で生々しすぎる感触が刻みつけられることになります。
この度の円坐も自分にとって、あるいは共に坐った方々にとって、そんな動かし難い過去の痕跡となっていくものと思われます。
円坐という厳しくも広々とした舞台で、ご縁のある方々とご一緒できることを楽しみにしております。
加倉井拓夫
【ご案内文 橋本仁美】
このたび姉弟円坐+(プラス)で守人を務めます
有無ノ一坐の橋本仁美です。
先日ダウン症の男の子と大人数名でドラムを叩かせてもらう機会がありました。
その子は演奏中、私たちと演奏する以上に、私達には見えない、
誰かこびとのような存在と、ときどきやりとりしながら演奏していました。
生きている人間や物理的にいまここに体がある人を中心に考えると、
その子のことを「自閉的でやりとりができていない」と思ってしまいますが、
実際には、その子はわたしには見えないはずの存在を
一緒に感じさせてくれて、出会わせてくれて、数名でやっていたはずが
数十人で演奏しているような、とても豊かな世界を感じさせてもらいました。
高槻のピッコロ保育園で毎月やっている「きくみるはなすピッコロ円坐舞台」では、
クラスが終わったあとに、担任の保育士さんと円坐するのですが、
現場での子どもたちの音楽の捉え方について
音楽教育的な、リトミック的な観点で捉えていた担任の保育士さんと、
そうではない私とで、互いの捉え方の違いについて話しました。
リトミックだと、子どもに教えるべき伝えるべき音楽観があって、
それが正確に子どもに伝わりリズムや音のニュアンスをちゃんと捉えて
楽しめるようになることを目的としているけど、
わたしにとっては音楽は現場で起こることがすべてで、
たとえ、穏やかでゆったり落ち着いて聴いてもらうつもりでかけた音楽だったとしても、
子どもたちが騒ぎ出して跳ね回り遊びながらそこにいるなら、
それがそこに起きた舞台であり音楽であり、子どもたちとのあいだに起きたセッションです。
会話についても同じように感じています。
音楽も会話もコミュニケーションですが、意図したことが意図通りに伝わることが
コミュニケーションのゴールなら、それは安心安全かもしれないけど
世界がすごく狭くなってしまいます。
しかしまわりをみわたすと、どうも、「こんなふうになってほしい」という
意図通りに伝わることが、会話の成立であり目的とされているようです。
それだと「こちらの意図通りに受け取ってもらわないと意味がない」という
自分本位な会話になるし、
受け取る側も「意図通りに受け取らねば」と神経質にならざるを得ません。
今月、高知の四万十でひらいた未二観の会でも、参加者の方々がワイルドであるがゆえに
わたしの説明通りに未二観をやった人はいませんでした。
しかしわたしが語った言葉を受けてその人がやったことは、まったく自然で、
それでいいと思ったし、おかげさまで見たこともない未二観の現場を目撃することになりました。
それがコミュニケーションなのではないでしょうか。
コミュニケーションは、他者をコントロールするものではなく、
他者とのあいだに起きる未知のクリエーションです。
意図を正確に伝えあうのではなく
響きあうコミュニケーションは、とても自由だし面白いです!
意図通りに伝えること、意図通りに受け取ることに
責任を持たなくて良いからです。
そのかわりに、相手の前にそのままで十全に存在していると、
相手との新しい関係性が次々と新鮮に生み出されていきます。
それが円坐では刻々起きていきます。
今回は初めて加倉井拓夫さんと、弟の悠と、わたしの
3人で円坐守人を務めます。
3人と、集まってくださった皆さんとの
千葉での未知の現場をとても楽しみにしています。
有無ノ一坐
橋本仁美