「63年目の軽井沢に置かせていただく円坐・白樺台山小屋に置かせていただく2年目の円坐」 ご案内

みなさま

「63年目の軽井沢に置かせていただく円坐・白樺台山小屋に置かせていただく2年目の円坐」のご案内です。
主催の芳野学さんの言葉をご高覧ください。ご縁をお待ちしています。

有無ノ一坐 松岡弘子

63年目の軽井沢に置かせていただく円坐・白樺台山小屋に置かせていただく2年目の円坐

まず始めに、昨年7月「62年目の軽井沢に置かせていただく円坐」 にお越しいただき、
言葉を置いていただいた皆様に厚く御礼申し上げます。

おかげ様で、私にとって62年目の軽井沢に円坐を置かせていただくことができ、
それは白樺台山小屋に置かせていただく1年目の円坐 ともなりました。

軽井沢駅での円坐を解かせていただくご挨拶のおり、
来年も置かせていただきたいと思いますとの言葉が生まれました。

今年も軽井沢に置かせていただく円坐で皆様の言葉を拝聴させていただきたいとの願いから、
この案内を綴らせていただきました。

63年目の軽井沢に円坐を置かせていただくと言うことは、
永年お世話になっている白樺台山小屋とその土地に円坐を置かせていただくと言うことでもありますため、
遠路山小屋までお越しいただく皆様に向けての言葉、そして山小屋とその土地に向けての言葉となります。

7月中旬、私が中学から大学までお世話になった学園に
くにちゃん、くぅさんと訪れる機会をいただきました。

校舎は建て替えられていましたが400mトラック、野球場はほぼ当時のままでした。

41年ぶりに400mトラック、野球場に立ち、年月(としつき)の隔たりを感じることなく、
通っていた当時のようにそこにいることが出来ました。

新校舎の辺りは、校舎は替わったものの初めて行く場所とは異なり、どこか馴染んだ感じがありました。

多くのものが変わって行く世の中にあって、このように変わることがなく、
時間の隔たりを感じさせることなく迎え入れてくれる場所を持っていることをありがたく、うれしく思いました。

白樺台山小屋は毎年出かけておりますので、今書いたように思ったことはありませんでしたが、
同じように迎え入れてくれるありがたく、うれしいところなのだと思うようになりました。

山小屋では、60年前のバンビ柄のプラスチックコップを今も当たり前のように使っています。
考えてみれば、そのコップもありがたく、うれしいもの・・・そのようなもの達で出来ているのが白樺台山小屋です。

昨年、円坐を置かせていただくに先立ち、円坐のための部屋に青いラグを用意しました。

そのラグは築61年目となる山小屋に向けて、私が初めて用意した調度品でした。
山小屋に初めて何かしてあげることが出来たと思いました。

もちろん円坐を置かせていただくのも山小屋にとって初めてのことでしたし、
私も山小屋に円坐を置かせていただける日が来るとは思っていませんでした。

円坐の期間中、建築当時からの食卓を皆で囲みました。

山小屋が建った時代には、軽井沢の山小屋は今と比べて珍しいものでしたから、
特に昭和38年から昭和44年ころ大勢の方々にお越しいただき、
高度経済成長期と言う時代の勢いもあり、それはそれは賑やかでした。

円坐は私を含め7名によるものとなりまして、
その時のように賑やかな時間を過ごさせていただくことができました。

そして、円坐でありましたお陰で、そのことだけに終わることはありませんでした。

今年6月 三好山と芥川城址 ふるさと相聞茶堂 に参加させていただきました。
その日「円坐は敬意をもって相手に関わる」とのくにちゃんの言葉を拝聴しました。
そこで起きたことを顧みることによりまして、その通りであると思うようになりました。

昨年白樺台山小屋に、明確にこの態度持った方々にも来ていただきましたため
「62年目の軽井沢に置かせていただく円坐 」の光景は今も、厚みをもった存在となりました。

そのひとつは、坐衆とくぅさんの未二観の時、坐衆から、
大切に思っていらっしゃる方にふれる言葉を置いていただいたことです。

それ以降、ひとり山小屋を訪れ未二観を置いていただいたところを拝見しますと、
未二観が今もそこにあるように現れます。 それは思い出されますではなく、現れますと著わしたいものです。

私と同じ時から軽井沢にご縁をいただき14年前に亡くなった父、4年前に亡くなった母。
その両親所縁の椅子、父が描いた絵、梯子などに座っていただき、見ていただき、触れていただき、
そして言葉を置いていただきました。

私はその言葉を通じての両親と出会うことができました。
それは誇らしく嬉しい気持ちを伴なったものでした。
この得難い体験は61年目の軽井沢までにはないことでした。

そのことから、62年目となります軽井沢と改めてご縁を結ばせていただいた、
私の代として改めて白樺台山小屋とのご縁を結ばせていただいたと思い、
先ほど 「白樺台山小屋に置かせていただく1年目の円坐ともなりました」と著わしました。

くにちゃん、くぅさんに「無言館感想ノートから」による影舞を
山小屋の苔むしたベランダに置いていただきました。

それを臨み、今までの年月(としつき)はこのことのためにあったのだと思いました。

しばらくしてから「62年目の軽井沢におかせていただく円坐」の円坐演目以外の時間を含む、
円坐すべてのためにあったのだと思うようになりました。

「63年目の軽井沢に置かせていただく円坐・白樺台山小屋に置かせていただく2年目の円坐」 は昨年置かせていただいた円坐も、先ほど触れた椅子、絵、梯子はじめのものと共に関わってくださる円坐です。

このような状況は私、軽井沢には初めてのことですから、どのようなことが起き、
どのような言葉を置いていただけるのか想像もつきません。

このような機会を与えていただけること、本当にありがたく思っております。

昨年は夏の始まる7月上旬に置かせていただきました。
今年は夏も終わり、軽井沢が落ち着きを取り戻しつつある9月中旬に置かせていただきます

遠方ではございますが、お越しいただきますと幸いです。

私の軽井沢への思いを、円坐がこの世にあり、円坐にご縁をいただきましたため、
このご案内という形をとり著わさせていただけました。

そのことを、私の軽井沢に含まれます全てのことがら一同とともに、
とてもうれしく、ありがたく思っております。

2024年 7月吉日 まなびー/芳野 学

63年目の軽井沢に置かせていただく円坐・白樺台山小屋に置かせていただく2年目の円坐
開催概要

日時:2024年9月17日(火)~19日(木)

場所:長野県北佐久郡軽井沢町白樺台周辺

宿泊:白樺台まなびー山小屋(民家への宿泊となります)

守人:橋本久仁彦 松岡弘子 橋本仁美 芳野学

会費:円坐 参加費 四万円

実費:別途 食費、レンタカー費用、千ケ滝温泉利用料など

持ってきていただきたいもの:懐中電灯(敷地内及び周辺に屋外照明がないため) 

申込:橋本(enzabutai@bca.bai.ne.jp)・松岡(soumon.enza@gmail.com)

主催:芳野学

追記

旧軽井沢水車の道近くに大正~昭和のアイルランド文学翻訳家、歌人、文筆家の
片山廣子さん旧別荘があります。昨年そちらにも影舞を置かせていただきました。

片山廣子さんの随筆「北極星」、「燈火節」は母が亡くなる前、
そして亡くなってからも大きな役割を担っていただいております文章です。
その片山さん所縁の別荘が軽井沢に現存し、その前で影舞を置かせていただくことができ、
ご縁を結ばせていただいたこと、本当に大切なできごとです。

影舞を置かせていただいたのち、3回ほど片山廣子旧別荘を訪れました。
書籍で拝見した片山さんのお顔が浮かび、影舞を喜んでくださっている気がします。

片山廣子さんの短歌を1首掲載させていただきます。 

さまざまの よしなしごとを 積上げし
生命くづれむ 日のはかなさよ

以下に、ここまでに幾度もふれて来ました、昨年の円坐向のご案内を再掲させていただきます。
背景としてお読みください。

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●62年目の軽井沢に置かせていただく円坐

私が始めて長野県軽井沢町に滞在したのは1歳の夏。
それは両親にとっても初めての軽井沢。
両親はかの地が気に入り、翌年の夏から父が白樺台に建てた山小屋で過ごすことになりました。

今年私は62歳になりましたので、私には62年目の軽井沢となります。

2歳のときから1年も途切れることなくお世話になった白樺台の山小屋と
その土地へのお礼の円坐を置かせていただくことを昨夏思い立ちました。

幸い有無ノ一坐のくにちゃん、くぅさんに遠方からお越しいただき、
円坐を置かせていただけることになりました。

ここまで書いたように、この円坐は白樺台の山小屋とその土地へのお礼の円坐ですから、
そこで過ごすことが主眼となります。

とは言いましても2日目は旧中山道・碓氷峠見晴台に出向き、
そこから遊歩道を1時間ほどかけて下り、中山道の宿場町から発展した
軽井沢のメインストリートである旧道周辺、時間があれば雲場の池などを散策します。

その辺りは両親を始め友人らと毎夏幾度も出かけた思い出の多いところなのですが、
特にこの3年悲しくなるような変わりようです。

道路から家が見えないほど広いお庭のあった別荘がマンション、ホテルになり、
私が思っている軽井沢の面影が急速に無くなりつつあります。

むしろ今まで、よく昔のままであったのでしょう。

「62年目の軽井沢に置かせていただく円坐」に来ていただいた方々に、
白樺台山小屋とその土地、旧道はじめ私が慣れ親しんだ軽井沢を眼差していただき、
そこから生まれることばを聞かせていただきたいのです。

そのことでいずれ私に代って付き合って下さる方に白樺台山小屋とその土地とお譲りする、
私が慣れ親しんだ軽井沢がすっかり無くなってしまう、私が身体的に軽井沢に出かけられなくなってからも、

はっきりとそれらに帰ることができるようになればとの願いがあります。


話題は変わります。今年春のお彼岸、萩円坐街道に参加させていただきました。

新幹線新山口駅(小郡)から車で萩に向いました。
その際、毛利氏が参勤交代用に整えた山口・防府へと通じる?萩往還と呼ばれる街道の傍を通りました。

萩往還に涙松と呼ばれるところがあります。

涙松について萩市観光協会公式サイトから引用します。

人々が萩のまちとの別れを惜しみ涙した場所

萩城下から山口・防府へと通じる萩往還沿いにある碑。
ここを過ぎると萩の町が見えなくなってしまうため、ここが城下を見ることができる最後の見納めの地でした。

人々はここで松並木の間に見え隠れする萩を見返り、別れを惜しんで涙し、
また帰った時には嬉し涙を流したということから、いつしか「涙松」と呼ばれるようになりました。

幕末、吉田松陰が安政の大獄で江戸に送られる時にここで
「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入ぬるる涙松かな」の一首を残しています。

一入は「ひとしお」と読みます。

(引用はここまで)

さて、萩から小郡に向かう帰り途、この涙松で2つの影舞を置かせていただきました。

それは前日から萩を訪れ、萩の景色(吉田松陰の墓所、吉田松陰の叔父旧宅、旧城下、菊が浜、野山嶽跡、松下村塾など)、
空気、萩の方々の吉田松陰への思いに触れ、円坐、影舞を置かせていただいた後、この萩円坐街道最後の影舞となりました。

私が置かせていただいた影舞の際、くにちゃんが大河ドラマ花神(幕末、維新期に活躍した萩藩出身の大村益次郎を描いたもの)
のオープニングに流れる曲を選曲してくださいました。

このドラマは私が高校1~2年生の時に放送され、私はこの曲を含めとても好きで、50年近くたった今でも時々見ています。

その選曲のおかげもあり、この影舞では高校の修学旅行で萩を訪れた時から今までの50年近い時間の経過、
その中にいろいろな出来事があり、そして今も生き続けていることへの言葉にならない思いを体験しました。

そして私の死出の旅路のおり、いよいよこの世とお別れするところの景色は涙松。
涙松でこれがこの世の見納め、そしてそこまで見送ってくださった方々との永遠のお別れを
行うことになると思うようになりました。

萩円坐街道を終えてからこのような体験を綴った文を、連れていっていただいたことへの
お礼を込めてくにちゃん、くぅさんに送らせていただきました。

くぅさんから「いよいよ今生の人生を発つ時には、各地に涙松があれば、きっと、
そこには沢山の思い出や大切な人の面影と、きちんと本当の再会がきることになるのだなあと、思いました。」

という言葉をいただきました。

62年目の軽井沢に円坐を置かせていただくことで、白樺台の山小屋とその土地、軽井沢が各地にある涙松の一つ、

それは沢山の思い出や、両親始め大切な人の面影と、きちんと本当の再会がきるとことが出来る場所、
この世に生まれてよかったと思える場所になればと願うのです。

2023年5月吉日 まなびー/芳野 学