橋本久仁彦・66歳の誕生日御礼

皆様から誕生日のメッセージを頂きました。
誠にありがとうございます

この歳になって、自分が生まれて来て寿命が尽きるまでの間には
「果たすべき課題がある」ことが腑に落ちるようになりました。

円坐舞台によってその存在が明らかになる「原初的な人間関係」は、
自分がこの世界に存在しているという事実との一致感、納得感、祝祭感をもたらしてくれます。

僕の人生には、「人間・橋本久仁彦」として「誠意を尽くして付き合うべき人々」と「添い遂げるべき関わり合い」があります。
それが円坐舞台の現場で発見した「原初的な人間間係」です。

この世界には、出逢った他者との 「絆」 と「真実のかかわり合い」を、人生で最も大切な価値として生きている人々がいます。
彼らの生き様と親しく付き合うことで、僕自身の「他者との関わり合い」も大きく変化してきました。

僕は60歳を越えた頃から、言葉の意味や概念ではなく「生きる態度」を共有する関係が急に増えてきました。
そのような関係では、その瞬間のお互いの態度と生き様でやりとりが成立します。

「態度と生き様」とは、互いの人生と生命の直接表現のことですから、言葉に頼ったコミュニケーションが持つ限界がありません。
ふたりの間には、好き嫌いを超えて「さらに深くかかわり合う態度」が自然に生まれていきます。

そのため、僕がかつて大学で「専門職」として使っていた「傾聴」や「コミュニケーションスキル」や「ファシリテーション」といった用語は使わなくなり、その用語に付随する既成のスキルを用いて人間関係の状況や方向を操作する必要もなくなりました。

66歳になった現在は、そのような関係操作の代わりに
「尊敬と愛情に基づいた人間と人間の関わり合い」や
「永続する人と人との絆」を経験しています。

ある友の言葉を参考にしましょう。

「人は声はなくとも、声があるのと同等に語るものだと思いました。

・・・円坐を体験させていただいているおかげで、墓でなくとも、例えば鰻屋さんで私が両親のことを語ることや、所縁の場所で所縁の人が語り、辿っていただくと、そこに込められていたものが再生されると思います。

人とは凄い能力を持っていると思います。

出向き、語り、辿る。(←このことに、「の素晴らしさ」「の持つ可能性」などの形容を付けることは憚られます。)」

この記述は、我々が「円坐」と呼んでいる活動の本質的な一面を良くとらえています。
この友に対しては、橋本久仁彦が「出向き」「語り」「辿った」のみであって、その事実以外に何も飾りは在りません。

「特定の他者に会う」という固有で唯一無二の経験事実を生きるかわりに、
「○○対話」や「共感的応答」や「ファシリテーション」を「演じてみせる」なら、
どんどん生のリアリティから離れ、他者と自己の存在を消し、
与えられたスキルや技術にもとづいた人工的で二次的な人間関係が生産されていくことになります。

替え歌をひとつ。

「柔肌の 熱き血潮に触れもみで 寂しからずや スキル説く君」

たとえ世界のどこであっても、歴史上のいつの時代であっても、
こちらから出向いて触れに行かない限り「絶対に経験できないこと」があります。

この友との間には、「自ら出向いて能動的に関係を生きること」が成立しました。
その能動的な事実と体験は、「彼と僕の関係」以外の人と土地では絶対に起こりえないものですから、
誰でも理解でき、誰でも経験できるように知識やスキルとして一般化することは不可能です。

ですので、「傾聴スキル」や「ファシリテーション」や「○○法」といった
一般化と均質化を意図した用語や概念にもとづく人工的な関わりの態度は、彼と僕との間には存在しません。

スキルを「使用」すると、使用される者だけではなく、
使用する者も必然的に「スキルに使用される存在」になります。

我々の社会には、「みんなのために」「みんなが傷つかないように」「みんなが理解し合えるように」
善意を装って脅迫的に「対話と理解のスキル習得」を勧める利己的な思想と行為が拡散しているように見えます。

もし我々が能動的に観察し、能動的に思考することができるならば、
以下のような「集団的な脅迫傾向」の存在を認識することができます。

①「刻々と生きて変化する固有で唯一無二の生命現場をカテゴライズ(分類整理)し、
『それを欲しがるみんな(社会)』に分かち合うため一般化する」

②「一般化によって本来独自で唯一無二である生命現象の均質化と同質化を拡大する」

③「均質化と同質化によって可能となる人間関係の効率的・機械的使用を拡大する」

④「効率的・機械的使用によって人間関係は経済の対象となり、購買消費が可能となる」

人間関係の効率化のノウハウがファシリテーションであり、

機械的使用が「心理的経験の再生産」と「心理的経験の大量生産」を目指す
「ワーク」や「スキル」や「○○法」などのメソッドです。

本来オリジナルでしかありえない「生命」が、機械的・情報技術的構造に編集されてしまうと、
我々は現瞬間に生成し続けている無数の生命の事実から切り離され、
血の気が無く、熱も無い過去の「データ」に従って行動するようになります。

それは新たな情報を入力して過去を修正し、再編集し、目的に達するために必要な
時間とかかる手間を効率化し、短縮化し、求められたコマンドを実現する人工知能的な「モデル」であると言えるでしょう。

僕が友に対してとった行動は、友を情報として対象化し、
結果を予測したモデルから割り出した行動(出力)ではありません。

友がそれを求めているから行った福祉経済的サービスでもありません。

「この友」と「この僕」との間にだけ生じた史上初めての「唯一無二の固有の態度と出来事」でした。

円坐舞台芸能の基礎稽古は、この関係性の区別を体感としてしっかり知覚することを目指します。

この知覚があいまいだと、現代世界の焦眉の問題であるテクノロジー(技術化・機械化)と
生命存在との深刻な葛藤を正確に意識することができません。

そして、円坐守人を志す人がこの関係性の区別をしっかり知覚すると、
円坐舞台や未二観舞台や影舞舞台という舞台活動が、人類の進化と歴史においてどの位置にあり、

現代という時代の中でどのような働きをしているのかを明瞭に認識することができます。

円坐舞台は刻々と生きて流動する生命現場ですので、
他者との関わり合いを「モデル化」し、インフォメーション・テクノロジー(IT)にならって
機械的にとらえようとする態度は常に葛藤を引き起こし、意識化されます。

そして機械化・情報技術化に対抗する原初的、生命的な力が、
坐衆相互の人間としての対峙と仕合いの情熱から無限に生まれてきます。

円坐守人の仕事とは、人間関係の情報技術化と機械的操作に対峙して、
現瞬間に突如としてあらわれる「生命力」の、未知で無限の現状刷新力を守り、担保することであると言えるでしょう。

近年、日本の社会で流行しているのは、

「最初から人工的に共感し、互いを肯定することを知的に急ぐ人間関係文化」です。

その流れに対して、有無ノ一坐の人間関係芸能は、肯定や否定、善悪、好き嫌いを超えた
「真正な他者」の誕生を告げる新しい文化の萌芽として存在しています。

有無ノ一坐の活動を開始してから、僕と娘や息子との関係も大きく変わりました。

血縁の家族という感覚が薄くなり、
「人生を最期まで共に生きる真正な他者」
という感覚が大きく分厚くなりました。

我々が実は深い所でこのような人間関係を求めているなら、
この新しい人間関係を体現することが有無ノ一坐の社会的な仕事になります。

あるいは我々が自ら能動的に考えることを手放し、
人間関係と人格の基礎を情報技術によってコントロールする強大なIT社会が実現するなら
予測不可能で直観的な「きくみるはなすかかわりあう」
口承即興円坐影舞 有無ノ一坐として、この世界と最期まで鋭く対峙していきたいと思います。

僕の66歳の誕生日を意識し、思念してくださった皆様に御礼申し上げるとともに、
誕生日の御挨拶として、僕と有無ノ一坐と社会とのかかわり合いの一端を述べさせて頂きました。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

口承即興円坐影舞

 有無ノ一坐 橋本久仁彦