生駒石切円坐守人十六番稽古2025

2025年度の生駒石切円坐守人十六番稽古についてお知らせいたします。
石切での稽古会開催は今年2月から2026年2月までの13回となっています。

現在、自分自身の人間関係に疑問があったり、人との関わりあいに関心があったり、
残りの人生の時間のあり方を今一度考え直してみたいと考えておられる方など、

2025年度の生駒石切円坐守人十六番稽古は
一年半にわたる有無ノ一坐との関わり合いの継続そのものが、稽古の眼目となっています。

もしよかったら思想も価値観も生き方も、全く異なる有無ノ一坐のこの四名と
共に一年半稽古しながら新たな旅の空へ向かって切実に生きてみませんか

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「生駒石切円坐守人十六番稽古2025」

①2月16日
②3月30日
③4月20日
④5月18日
⑤6月22日
⑥7月20日
⑦8月17日
⑧9月21日
⑨10月19日
⑩11月16日
⑪12月14日

2026年
⑫1月18日
⑬2月15日
⑭有無ノ一坐との個人稽古(石切稽古の中で適宜行います)
⑮地元での円坐主催
⑯主催円坐での守人実践

(石切稽古はいずれも日曜日10時〜18時)

※「月に一度だけの円坐稽古」ではなく、
「一年半にわたる有無ノ一坐とのかかわりあいの継続」が
稽古の眼目となります。

※問い合わせ先 有無ノ一坐 橋本久仁彦

会場:大和の国との県境に位置する石切町、難波の国大阪を見下ろす生駒山の麓。

ご案内 松岡弘子より

一般的なワークショップでは、参加者の気づきや成長、
出会いや自己一致を目指すとどうしても現場から対等な関係は消え、
支配関係が生じてしまいます。

一体なぜそうなるのか議論し論理的に頭で理解するのではなく、
石切稽古会では、実際の現場で円坐稽古を通じ、押さえていきます。

人間関係においても、鬼が執り憑き勝手に鬼が出歩く幻術という現象についても、
しっかり関わりあうなかで目を瞑らず解像度をあげながら、
自分一人の視点では捉えきれない事実をおさえていきます。

すると、日常の人間関係も、円坐でいる時の関係性も
全く同じであるということに驚かれると思います。

なぜなら、日々他者とつきあい、関わりあっていると、
その事実が自明の如く、浮上してくるからです。

人といて本当に心の底から楽しいと感じる時は
圧倒的に他者と関わり真剣につきあっている時です。

ところが我慢して感覚を麻痺させて異和感を飲み込むと、
自分のなかで肥大していきとうとう「化け物」と化します。

人生においてもライフワークだった仕事が、
対等に仕合いお互いに仕えあう仕事ではなくなってしまい、
仕事を労働として考え始め、お金に換算したり、無理して労働環境に適応したり、
ストレスを抱えて、巨大化した化け物をくるくると他人に被せて、
エゴイスティックに生き残ってしまうと、乖離してしまい、自分に自分が孤立します。

たとえ良好な人間関係であろうとなかろうと、
他者とさいごまでつきあうというのはどういうことなのか。

生身の人間同士としてだけではなく、魂同士で精神的なご縁の円坐、
という地平に立ち続けてまいりましょう。

有無ノ一坐 松岡弘子

ご案内 橋本仁美より

昨年一年間の石切稽古会もあっというまに残すところあと1回となり
2月からまた次の石切稽古会が始まります。

昨年始まるときもめっちゃ楽しみでしたが、
今年もまた全く雰囲気のちがうメンバーが集まり
これから一年その人たちがどうなるのか
また私とその人たちがどうなっていくのか、とても楽しみなところです。

なんやろう‥、なんでこんなに楽しみなんやろう。

やっぱり、石切は特別です。他の円坐もおもしろいんやけど、
石切は格別なものがあります。その分、しんどさも格別やけど(笑)
一番そのままな場だからです。

円坐守人稽古会は、なにかになるための稽古会ではありません。
あなたが、わたしが、一緒にいる他者の真っ直ぐな眼差しによって
その正体がそのまま炙り出されます。

うまくやるために他人から隠してきた自分だったりするので
それが他人の目にさらされるのは痛々しかったりするのかもしれません。
自分を隠してきたほど、その痛みはあるようです。

でも、人生終わるまで隠し続けていくのでしょうか?
隠した自分でも、それでも世の中は(むしろ)うまく渡れます。
社会的な人間関係を営むことは、ある程度能力があれば比較的簡単だからです。
そうやって自分を自分で上手にコントロールしたまま、
よっぽどのことがない限り死ぬまで問題なく行けます。

しかし「社会」というのは「ある程度生きやすい世界のモデル」なだけであって
「あなたやわたしが生きること」ではありません。

そんなに上手に適応して他者と深く会わず少し寂しく退屈な思いをするよりも、
多少の痛みや恥ずかしさを超えて、
超絶めんどくさくてだめだめな「私」がそのままで他者と出会うほうが、
よっぽど良いんじゃないでしょうか。

そうやって出会うと、家族とだけだった繋がりが
他人とのあいだに起こるようになってきます。
家族以上の繋がりになることも多々あります。
好きでも嫌いでも同好会でも主義でも血縁でもなく、
ただ行く道が重なるところだけで繋がる間柄です。

「行く道」とは何かというと、
あなたとわたしの間に何が起きているのか、
そこにある「事実」を見るということです。
その事実が他人と「唯一無二の仲間」になれる一番の地点だし、
事実であるがゆえに、あらゆる感情・思考・物理的環境その他何物にも揺るがされないので、
ぶれない軸にもなり、尽きることのない生きる力そのものにもなります。
だから円坐では緻密なところまで妥協なく事実を辿ります。

円坐に座る私たちが外を歩いていたら
なんの集まりなのか他の人からはさっぱり見当がつかないようです。
いわゆる「〇〇っぽい」というのが無いからです。
なので、「一体なんの集まりですか」とよく聞かれたり、
そのつながり方の深さから
まったく雰囲気や顔が似てないのに家族と見られたりすることも。
弟がお兄ちゃんになったり、友人がお母さんになったり
お母さんが自分の息子と姉弟になったりします。

生駒石切円坐守人十六番稽古は、有無ノ一坐4名による、
一年間計16回のかかり稽古です。

生き様も価値観もまったく違う4人の目が全力で見て全力で関わりますので
私一人では到底出会えないその人に出会うことができるんです。

昨年の稽古会では、友人でありかつて同僚でもあった2人を誘って本当によかったです。
わたしひとりの関わりでは見えるものに限界がきて
その人たちとはきっとただの友達で終わったでしょう。

そのうちに、価値観が違ってきたり
ちょっと会わない期間が長くなったりすると
自然消滅してしまうような友情。

ただSNSで繋がっているだけの、友達という名前のついた他人。
円坐のおかげで、私は何人分もの人生を歩んでいます。

石切稽古会は、一般公募はしていますが基本的にお誘いした人が来ています。
私にとっては、石切円坐守人稽古会に誘おうと思う人には明確な区別があります。

それは、映画「マトリックス」で、マトリックスの外から来た人が主人公に
「目の前の平穏で退屈な世界は
実はコンピュータが人間を管理するために見せている幻想で、
現実は機械が人間を支配している殺伐とした世界なんだよ。」

ということを伝えたうえで、それでも現実の世界に行くことを選ぶか、
今の世界にとどまるかを尋ねるシーンと似ているからです。

「外」の世界は地獄かもしれないので「旬」の人以外の人を呼ぶことはできません。
なにもなく、誰も助けには来ず、しかしみんながまぎれもなくそこにいて、
ときに殺伐ともするがしかし、とてつもなく自由な空間、生駒石切円坐守人十六番稽古。

「マトリックス(仮想世界)の外の世界」を一年間共に生き抜きましょう。

有無ノ一坐 橋本仁美

ご案内 橋本悠より

寒中御見舞い申し上げます。
2025年度の石切円坐守人十六番稽古のご案内です。

円坐は、守人が時間を取り仕切り、ごく単純なコミュニケーションを取る場です。
コミュニケーションや人間関係など、言葉にしてしまえば簡単ですが、
実際の現場では、お互いの人生経験から起こる食い違いや、
思い込みの中の体感で人と関わってしまい話が噛み合わないなど、
人間同士のやり取りは見た目以上に複雑で難解です。

最近、ファシリテーションに取り組んでおられる方々と、
円坐をする機会があったのですが、その中で人間関係には、
頭が良いからこそ陥る落とし穴があるなと感じたことがあります。

「人間とはそもそも前提条件や人生経験が違うのだから、
どうやって良好な関係を結べば良いのか」という問題提起は、
恐らく多くの人が考えることだとは思います。
この人とはどうやって付き合えばいいんだろう?というような具合です。
『良好な関係』というのが落とし穴で、現実的に今直面している問題は
「お互いの価値観や思想、経験までもが違う、自分とは完全に違う個人との接触」です。
この場合の問題とは、良好な関係の結び方ではなく、お互いが”違う”ことです。

良好な関係を結べたら良いのは、それはその通りですが、それを望んでいるのは自分であって、
それを良いことだと信じて疑わずに、当たり前のように相手に押し付けている。
というのがひとつ、頭が良いからこその落とし穴になっているなと感じました。
良好な関係を結ぶのは、無益な衝突を避けたり親しくなれるようにという予測あってのことですが、
いくら経験則があったとしても予測はただの予測でしかなく、実際にはまだ起きていないこと。
予測は、まだそれが叶っていない現実ありきのものだということを押さえなければ、
いつの間にか非常に現実味を帯びた思い込みの中で相手と会話をしてしまい、
対等に話すことも難しくなるようです。

これから起きることを想像できてしまい、予測し対策することは素晴らしい能力ですが、
他人と接触し対話することは、どちらかと言えば物理的な、実際に今起きている本物の現実で、
その中で予測を成就しようとしてしまうのは、思い込みに囚われて現実が見えておらず、
夢の中で独り言を呟いている状態です。
そんなものは誰にも伝わらず、会話すらままならないのはその通りで、頭が良く能力も高く、
自分1人で自身を取り巻くものを捉えようとしている人ほど、その状態に近付いていきます。

真に良好な関係とは、親友や友達になったり、相手をコントロール下に置くことではなく、
無駄とも取れるようなコミュニケーションを繰り返し、実際に何もかもが違うお互いの、
独自の距離感を2人で生み出すことだと思います。

円坐は、非常に単純ゆえに、それぞれの人が今まで培ってきた物が全て出てきます。
その中にはもちろん現実が受け入れられないことや、予測通りに物事を運べないことに
強い拒否感が出てくることもあります。 しかしそれ自体は、
あなた自身が今までの人生で培ってきた物で、あなたと言う存在だからこそ、
その場面で巻き起こったものです。
否応なく自分というのはこう言う存在なのだと、その上でこの目の前の、
全てが自分とは違う人達と接してみよう、というのが目的です。
なぜなら今、目の前に人が居るというのが紛れもない現実だからです。

その時初めて、自分の思想や思い込みを超えて、自分という存在そのままに、
目の前の人を介して現実に触れる事ができます。
その結果生まれるものは沢山ありますが、良い結果を求めて行うというより、
恐らく人間はその過程を繰り返す生き物で、この繰り返しこそが生きるという本質であり、
そこからあらゆる物に分岐して色々な結果を孕みますが、
それはその人の歩んできた人生次第なのだと思います。
守人はそういったことを求め続け考え続ける人を指します。
上手く場を仕切ったり、全員に同じ時間話させるのが目的ではありません。

非常に難しいとは思いますが、人間として生まれた以上、
他人や現実、自分自身に向き合うのはこの上なく価値があり、
自分という存在の何よりの財産だと確信しています。
円坐や守人に興味を惹かれた方は、是非ともご参加ください。
石切にて、お待ちしております。

橋本悠


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【石切稽古修了生の言葉】

今年も残すところあと僅かとなりました。
この一年もおかげさまで円坐に関わり続けることができました。

円坐でご一緒してくださったみなさま、今年もありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、私が円坐に関わりはじめたのは2022年からですが、
それからの3年をそれぞれひとことで言い表すなら、

2022年は円坐と出会った年、
2023年は円坐を訪ねた年、
2024年は円坐が身近になった年。

そんなふうにいえるかと思います。

去年(2023年)は円坐のために石切に通いましたが、
今年(2024年)は千葉で円坐を開き、
さらには有無ノ一坐に自分の生活圏まで来ていただきました。

考えてみれば、円坐をするために訪ねていった大阪の石切・千代崎・高槻などは、
まさに有無ノ一坐の生活圏です。

また有無ノ一坐のみなさんは、実の親子であったり、
時に家族以上に運命を共にする間柄であったりします。

円坐のために訪ねたのは、
そういう4人の円坐守人の人生が脈打つ空間に他なりませんでした。

そして今年に入り、自分がこれまでの人生を送ってきた千葉で
自分でも円坐を開きはじめました。

そうやって円坐を開くようになってからずっと考えていたのは、
「円坐を開くことと人生が開かれること」というテーマについてでした。

ここ10年間(おそらくはそれよりずっと以前から)、私は、
人生に自分なりに真面目に向き合えば向き合うほど、
なぜか生活が狭いところに閉じていくという事態に直面してきました。

そして、もはやこれ以上後ろに退がればあとは
あの世に転がり落ちるしかないところまで追い込まれた時、
家を取り囲む竹藪を切り開き、2月の日の出前の寒気に震えながら大阪を目指したのでした。

ですがその後、"自分で円坐を3回開く"というミッションをやり遂げると、
今度は円坐の幟を立てた有無ノ一坐が、
はるばる竹藪のこちら側までやってきてくださいました。

ここ10年ほどの間、私は、自分が閉じ込められている場所と外の世界が
分厚い壁で隔てられているような感覚をもって生きてきました。

そんな「内側」の世界から出て訪ねていった「外の世界」である大阪は、
有無ノ一坐にとっては「内側」の世界だといえるかもしれません。

逆にはじめて足を踏み入れる我が家の竹藪の「内側」は、
おそらく有無ノ一坐にとっては「外の世界」だったでしょう。

このように、他者と関わりその「内側」まで踏み込み合うことは、
自分で勝手に設定した世界との間の境界を撹乱し、無効化することにつながるようです。

いまの私には、かつて自分の人生を狭い空間に閉じ込めていた
「内と外」を隔てる分厚い壁が、
実は薄い板にすぎなかったようにも思えてきて、
無意識に纏っていた武装が解けて身軽になってくるような感覚があります。

ただ、そうやって身軽になった分だけ無防備にもなったのか、
親子ほど歳の離れた百戦錬磨の"マムシ"にからみつかれ、
二週間にわたり広島、埼玉、大阪と転戦したりもしました。

しかしそれも結果として、激しく打ち合った相手だけに感じる
尊敬の念を抱くという経験につながり、呼吸する世界がまた少し広くなりました。

このように目の前にあらわれたひとつひとつの円坐に精一杯坐り続けるうちに、
自然と、閉ざされた人生も少しずつ広い空や海に向かって開かれてくる。

またそれと同時に、壁の内側に押し込められていた自分という存在が、
内と外の区別を失った広大な空間に流れ出ていく。

円坐はそんなプロセスを自分の人生にもたらしてくれているように感じます。
来年もさっそく一月から円坐を開きたいと思います。ご参加を心よりお待ちしております。

関東円坐研究会 
守人 加倉井拓夫

【今年石切稽古に参加する人の言葉その一】

今年は大阪に毎月通い、
円坐守人稽古に参加します。

円坐に出会って10年以上。
ずっと大阪の稽古会に行かず、
東京で円坐を開いていました。

30代の僕は、
稽古会に行かずとも守人ができると思っていたんですね。
バカでした。

ここが自分がファシリテーションを越えれないところ。
ずっと自分だけの世界にいる。
技術だと思ってるから、自分で学んで高められると思ってる。

うまくできるための道。
人に会って、対峙する。
それしかないんです。

それをしない人に
苛立ってきたじゃないか。

それがしたかったのに、
何を守っていたんだか。

円坐は字の如く、
円くなって坐るだけです。

人しかいません。
あなたとわたし。
あなたとわたしを生きていく。

それしか無いんだと教えてくれたのが円坐です。
円坐に向かう僕の居所です。

2025年、どうぞよろしくお願いします。

【今年石切稽古に参加する人の言葉その二】

「無常という事」

 円坐という舞台(世界)の中に居ると、人の面影が立ち上がる。
 たしかに妄想なぞしてはいなかった。

そこに立ち上がる面影をしっかりとらえていたのだし、
鮮やかに浮かび上がる言葉をしっかり辿った。

余計な解釈は何一つ考えなかったのである。
解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。

 記憶するだけではいけないのだろう。
 思い出さなければいけないのだろう。

現代のファシリテーターが(人間ではなく)一種の動物のように見えるのは、
解釈で頭を一杯にしているので、心を虚しくして思い出すことが出来ないからではあるまいか。

 上手に思い出すことは非常に難しい。

だが、それが「過去から未来に向かって飴のように延びた時間」
という思想(現代最大の妄想)から逃れ、
本来の「球体としての時間」を取り戻す唯一の本当に有効なやり方のように思える。

 現代のファシリテーターは無常ということが全くわかっていない。

解釈で頭を一杯にして、
常なるもの(そこに立ち上がる面影、鮮やかに浮かび上がる言葉)
を見失ったからである。

【今年石切稽古に参加する人の言葉その三】

「私は対話型鑑賞法も手掛けていました。
あるとき美術館でこどもたちに対して対話型鑑賞法を行いました。
そしてこれはこどもたちに対してやってはいけないことだと感じました。
それ以来、対話型鑑賞法のファシリテーションはやっていません。」

【今年石切稽古に参加する人の言葉その四】

「ファシリテーターは物事を促進することはできる。
だけど自分はその道を歩かない。
ファシリテーターはファシリテーションをしたいのであって、
自分がその人との関係を生きたいのではない。」

ご案内 橋本久仁彦より

「円坐とは何か~生駒石切円坐守人十六番稽古2025開催のご挨拶」

2025年度の生駒石切円坐守人十六番稽古はお陰様で開催が成立し、
有無ノ一坐の四名の守人は日本の各地から稽古に参集される方々との
一週間後の邂逅を見すえて日々を生きています。

円坐とは一体何か。
円坐守人とは何をする人なのか。

我々石切円坐衆はこれから13カ月間に渡ってこの問いに直面します。
石切稽古を始めるにあたって、ひとつたとえ話をしたいと思います。

生駒山は標高642メートルで奈良と大阪の境界に位置しています。
守人稽古の会場は生駒山の大阪側の麓の斜面地にある築60年の民家で、
玄関を出て坂道を登って行くとそのまま登山道に入ります。

生駒山は万葉の昔から大和の国を防御する境界守護の山として知られ、
大阪側の平地と海の向こうから侵入する外敵や魔族に備える「聖なる衝立」の役割を持っています。

そのため山域の川沿いを中心に大小無数の民間宗教や滝修行の場などが存在しています。

登山道を辿ると時々赤いお地蔵さんが現れ、登山者を見つめます。

国と国や聖と俗、顕幽を分ける境界そのものである生駒山の登山道は、
我々の目の前に常に変わらず存在し、今も昔も何百年もそこに入口を開き続けており、
登りたい人はだれでも登れます。

円坐とは時間を超えて常に我々の目の前に存在するひとつの登山道です。

登りたい者は今すぐだれでも登れ、登り続ければ境界を越えます。

円坐守人とは目の前の山と登山道を認識し、すでに登り始めた登山者のことです。
このたびの人生では目の前の山には登らないと決めたならそれはそれでよいでしょう。

興味深いのは、眼下に広がる平野部に「登山の意義と目的」や
「安全で効率的な山の登り方」を教え、研修するたくさんの講座が入った巨大な施設があり、
その中に多くの人々が集まっていることです。

この施設は人々の「登山への憧れや願いやニーズ」に応えるために建てられました。

「登山のイメージに集中して気づきと成長を」という瞑想グループが人気です。
「登山について対話する」という講座も開設されました。
「傾聴を学ぶと良い登山ができる」というテーマの勉強会もあります。

「登山したい人のためのファシリテーション」を依頼されたファシリテーターが
登山に憧れる人々にファシリテーションを施しています。

彼らは巨大な施設の中で開いては閉じる様々な種類の研修会を生涯渡り歩き、
研修の方法やワークのノウハウに熟練しています。

登山哲学や登山体験の本をたくさん読み、人々の「登山への思い」に共感したり肯定したり
勇気づけを行ったり言語化や図式化をし、
次から次へと現れる目新しい「登山について」のワークショップを提供し続けます。

しかし彼らは決してその施設から外に出たことはなく、実際に山に登ったこともないのです。

円坐とは、我々の目の前に実在する実際の山道のことです。
現代の社会では山そのものを認識する人が少なくなり、登る人はまばらです。

円坐守人や円坐衆とは風雨を直接身に受けながらその山道を今ただちに登り始める者のことです。
彼らには「道という現実を辿る」以外のことに時間やエネルギーを消費する余裕はありません。

下段に坂上陽子さんの文章を彼女の同意を得て掲載させていただきます。
彼女は生駒石切円坐守人十六番稽古に一年間通い、その経験を言語化されました。
その行動に敬意を表し、ひとつの貴重な記録としてここに掲げます。

彼女は巨大な施設から迷い出て生駒山の麓までやって来ました。
そして一年間登山道の入り口の前で座り込み、
登って行く円坐衆たちの背中を眺めてはうつむいて黙っていました。

彼女の文章が表現している「意味と文体」は、
円坐での彼女の存在と態度を知る者には大きな違和感があります。

起こった事実を恣意的に使って読む人の印象を忖度した文体であること。
自分と他者への態度を本当に変えざるを得なくなる真の体験と衝撃は
「経験して良かったこと」に変換され、距離を置いた予定調和になって封印されていること。

巨大な施設の中ではこのような文体と意味付けが好まれ、評価され、推奨されています。

しかし、坂上陽子と呼ばれる「ひとりの実在」が、
生駒山麓の石切稽古に一年間通って来て我々とともに坐ったのは疑いのない事実であり、
円坐に坐ったからこそ彼女の偽善的な在り方が明白に見えるようになります。

他者の態度と言葉の偽善性をはっきり見て認識すると、
現代社会に適応して生きる自分自身の偽善と腐敗もはっきり見ることになります。

人間関係に関する情報の発信者の多くは
「他者を肯定し共感しているようなイメージ」や「人々に感謝しているようなイメージ」を周囲に見せています。

しかし発信された言葉を「てにをは」まで丁寧に辿ると、
言葉の知的な意味と、粉飾され隠された発信者の意図しか伝わって来ないことがあります。

「他者」や「人々」の名前だけが使われて、彼らの実体を伴ったエネルギーが存在していないのです。
それはその発言の本当の動機が、自分の言動の偽善と腐敗を粉飾することにあるからです。

そして我々が自分の偽善と腐敗を粉飾するのは、
偽善と腐敗を自ら主体的に選択して生きている自分自身の現実の姿を封印し、
他者から見えなくするために必要だからです。

偽善に気づいたと言って反省して見せるのは再び粉飾です。
我々が本当に隠したいのは、実は自分の偽善的な生き方を
「偽善」とは思っていないということ。
むしろ偽善を利益と考えて選びとり、主体的、積極的に
この社会の偽善の一部として生きてきたということ。

なのにその見返りとして得た自分という存在が、
表面的で怯えた空虚な実存でしかなかったことへの強烈な不満と怒りです。

こうして歴史上最も知的になり、人工的になった我々現代人は、
二重ではなく三重に重なったベールで自らの霊性を封印しています。

他者と真剣に対峙しかかわりあうということは、
他者と自分の間に生じる偽善と腐臭に感受性を持つということです。

そして、他者と自分の間にリアルタイムで起こる
実際の偽善と腐敗の始まりにその都度気が付くことです。

その時、我々は巨大な施設の外に立っており、自由で、新鮮で、広がる青空と一つです。

偽善は施設の中でのみ流通する精神的な通貨でした。

外の自由な空間でかかわりあう人間関係は「わずらわしいもの」や
「面倒くさいもの」ではなくなり、心躍る創造の冒険になります。

そこでは真の愛と信頼と友情を分かち合う仲間との大冒険が、
人間関係の現実になって実在しています。

なぜなら真の愛と信頼と友情の母体である死と不条理と未知が、
我々の偽善によって隠されていないからです。

これが登山道を辿り始めた円坐衆の道行きです。

道を辿るとは、初めて私が存在すること。
道を辿るとは、初めて他者の存在にふれること。

本当に他者の存在にふれる時、自分の中に「怖れと空虚さ」はまったく存在しません。
以上をもって2025年度の生駒石切円坐守人十六番稽古開催のご挨拶とさせて頂きます。

生駒石切円坐守人十六番稽古守人
 有無ノ一坐 橋本久仁彦

ー坂上陽子さんの言葉ー

『石切円坐守人稽古へ参加。
人生で一番怖いと感じていた稽古に飛び込んだ。

予測が全く出来ないし、社交辞令や上っ面の笑顔や嘘が無い世界。
あまりにも長い間そうゆう世界に浸っていたから、怖いと感じるんやな。

ビビりまくって言葉を出せなかった。

57年生きてきて、初めて出逢った人間達
同じ日本語なのに、真面目に聞いてても何を言ってるのかわからない。
わからそうともされない。

学び成長気づき
そんなことばには当てはまらない 稽古と呼ばれる時間

稽古?こーすれば出来るようになるよというノウハウがない

人間関係っていったいなんなん?

あまりにも純粋な人間関係を目の当たりにすると、
うまいことやり過ごす事が全く出来ない。

頭がフリーズするし、細かい話になるとオーバーヒートして思考停止。

私は人と純粋に関わったことがないのか?
ちゃんと人の話聞いてるんか?
自分の都合の良い様に聞いてるんちゃうか?

そもそも聞いてないやん!

人と関わるって、とても面倒くさい事が多い。

?と思っても聞かないで、きっとこういう事なんだろうと勝手に想像して、
軽薄な関係になっていた。

この人凄い!と崇めている人に対して、
「?と思っても理解しようとする」癖があるんやとわかった。
自分にまとわりついてる膜の様なものを、ゆっくり剥がされてる。

自分の内側ばかり見ている世界から、
一歩外に出られたんじゃないかと、昨日(石切稽古最終日)思った。

今まで身を置いていた世界では、
リーダー的存在の人はカリスマ性があり、自分の好きな事を仕事にしている人で、
そういうタイプに惹かれていた。

崇拝し、その団体に尽くすことで認めて貰いたいと頑張りまくる。

そして数年経ち違和感を感じ始め、意見をし始めると、
今までひいきにされていた態度が一転し、
邪険にされたり無視されたりする。

そのリーダーやスタッフに洗脳されていた自分が目覚めると、
今度は仲間が心配になり「この団体はおかしい」と一人一人に声を掛けたり、
組織を壊す様な動きをして辞めていた。

そんな事を何度も繰り返していた。

ひとみん(橋本仁美)に出逢い、久仁彦さん、くぅ、悠くんにも出逢い、
今までのリーダーとは正反対の態度に「???」だった。

「自分を譲るな」 と言われる事が ???

肯定的に誤魔化されたり 共感的にうやむやにされる事に慣れて、
自分もそれが普通だと身に着けてしまっていて、
そこから抜け出せなかった。

人間関係においての信頼は、
嘘や曇りがあっては成り立たないのだということが、
わかってなかった。

純粋に 真剣に 向かいあう
あまりの真摯さにしんどくなって石切に行きたくない!
と、うーーっとなりながらも電車に乗る。

でも こんな面白くて怖い
楽しいのにしんどい
陽と陰が同時に現れる空間
他にない

怖さは自分の思い込みだった。
自分がコントロール出来る世界は夢の中 思い通りにならない方が現実

分かり合えると思い込んでるのは夢の中
分かり合えないから「直接かかわりあう」
のが現実

そんな事が少しわかってきました。

人との関わりを学ぶには、人と関わるしかないので、
これからも円坐に参加し続けていきます。

円坐も 農業も 10年は続けるつもりでいる

生活に人生に染み込んでいく様に
改めてどうぞ宜しくお願い致します!』