生駒石切円坐守人十六番稽古2025 ご案内
2025年度の生駒石切円坐守人十六番稽古についてお知らせいたします。
石切での稽古会開催は今年2月から2026年2月までの13回となっています。
現在、自分自身の人間関係に疑問があったり、人との関わりあいに関心があったり、
残りの人生の時間のあり方を今一度考え直してみたいと考えておられる方など、
2025年度の生駒石切円坐守人十六番稽古は
一年半にわたる有無ノ一坐との関わり合いの継続そのものが、稽古の眼目となっています。
もしよかったら思想も価値観も生き方も、全く異なる有無ノ一坐のこの四名と
共に一年半稽古しながら新たな旅の空へ向かって切実に生きてみませんか
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「生駒石切円坐守人十六番稽古2025」
①2月16日
②3月30日
③4月20日
④5月18日
⑤6月22日
⑥7月20日
⑦8月17日
⑧9月21日
⑨10月19日
⑩11月16日
⑪12月14日
2026年
⑫1月18日
⑬2月15日
⑭有無ノ一坐との個人稽古(石切稽古の中で適宜行います)
⑮地元での円坐主催
⑯主催円坐での守人実践
(石切稽古はいずれも日曜日10時〜18時)
※「月に一度だけの円坐稽古」ではなく、
「一年半にわたる有無ノ一坐とのかかわりあいの継続」が
稽古の眼目となります。
※問い合わせ先 有無ノ一坐 橋本久仁彦
会場:大和の国との県境に位置する石切町、難波の国大阪を見下ろす生駒山の麓。
ご案内 松岡弘子より
一般的なワークショップでは、参加者の気づきや成長、
出会いや自己一致を目指すとどうしても現場から対等な関係は消え、
支配関係が生じてしまいます。
一体なぜそうなるのか議論し論理的に頭で理解するのではなく、
石切稽古会では、実際の現場で円坐稽古を通じ、押さえていきます。
人間関係においても、鬼が執り憑き勝手に鬼が出歩く幻術という現象についても、
しっかり関わりあうなかで目を瞑らず解像度をあげながら、
自分一人の視点では捉えきれない事実をおさえていきます。
すると、日常の人間関係も、円坐でいる時の関係性も
全く同じであるということに驚かれると思います。
なぜなら、日々他者とつきあい、関わりあっていると、
その事実が自明の如く、浮上してくるからです。
人といて本当に心の底から楽しいと感じる時は
圧倒的に他者と関わり真剣につきあっている時です。
ところが我慢して感覚を麻痺させて異和感を飲み込むと、
自分のなかで肥大していきとうとう「化け物」と化します。
人生においてもライフワークだった仕事が、
対等に仕合いお互いに仕えあう仕事ではなくなってしまい、
仕事を労働として考え始め、お金に換算したり、無理して労働環境に適応したり、
ストレスを抱えて、巨大化した化け物をくるくると他人に被せて、
エゴイスティックに生き残ってしまうと、乖離してしまい、自分に自分が孤立します。
たとえ良好な人間関係であろうとなかろうと、
他者とさいごまでつきあうというのはどういうことなのか。
生身の人間同士としてだけではなく、魂同士で精神的なご縁の円坐、
という地平に立ち続けてまいりましょう。
有無ノ一坐 松岡弘子
ご案内 橋本仁美より
昨年一年間の石切稽古会もあっというまに残すところあと1回となり
2月からまた次の石切稽古会が始まります。
昨年始まるときもめっちゃ楽しみでしたが、
今年もまた全く雰囲気のちがうメンバーが集まり
これから一年その人たちがどうなるのか
また私とその人たちがどうなっていくのか、とても楽しみなところです。
なんやろう‥、なんでこんなに楽しみなんやろう。
やっぱり、石切は特別です。他の円坐もおもしろいんやけど、
石切は格別なものがあります。その分、しんどさも格別やけど(笑)
一番そのままな場だからです。
円坐守人稽古会は、なにかになるための稽古会ではありません。
あなたが、わたしが、一緒にいる他者の真っ直ぐな眼差しによって
その正体がそのまま炙り出されます。
うまくやるために他人から隠してきた自分だったりするので
それが他人の目にさらされるのは痛々しかったりするのかもしれません。
自分を隠してきたほど、その痛みはあるようです。
でも、人生終わるまで隠し続けていくのでしょうか?
隠した自分でも、それでも世の中は(むしろ)うまく渡れます。
社会的な人間関係を営むことは、ある程度能力があれば比較的簡単だからです。
そうやって自分を自分で上手にコントロールしたまま、
よっぽどのことがない限り死ぬまで問題なく行けます。
しかし「社会」というのは「ある程度生きやすい世界のモデル」なだけであって
「あなたやわたしが生きること」ではありません。
そんなに上手に適応して他者と深く会わず少し寂しく退屈な思いをするよりも、
多少の痛みや恥ずかしさを超えて、
超絶めんどくさくてだめだめな「私」がそのままで他者と出会うほうが、
よっぽど良いんじゃないでしょうか。
そうやって出会うと、家族とだけだった繋がりが
他人とのあいだに起こるようになってきます。
家族以上の繋がりになることも多々あります。
好きでも嫌いでも同好会でも主義でも血縁でもなく、
ただ行く道が重なるところだけで繋がる間柄です。
「行く道」とは何かというと、
あなたとわたしの間に何が起きているのか、
そこにある「事実」を見るということです。
その事実が他人と「唯一無二の仲間」になれる一番の地点だし、
事実であるがゆえに、あらゆる感情・思考・物理的環境その他何物にも揺るがされないので、
ぶれない軸にもなり、尽きることのない生きる力そのものにもなります。
だから円坐では緻密なところまで妥協なく事実を辿ります。
円坐に座る私たちが外を歩いていたら
なんの集まりなのか他の人からはさっぱり見当がつかないようです。
いわゆる「〇〇っぽい」というのが無いからです。
なので、「一体なんの集まりですか」とよく聞かれたり、
そのつながり方の深さから
まったく雰囲気や顔が似てないのに家族と見られたりすることも。
弟がお兄ちゃんになったり、友人がお母さんになったり
お母さんが自分の息子と姉弟になったりします。
生駒石切円坐守人十六番稽古は、有無ノ一坐4名による、
一年間計16回のかかり稽古です。
生き様も価値観もまったく違う4人の目が全力で見て全力で関わりますので
私一人では到底出会えないその人に出会うことができるんです。
昨年の稽古会では、友人でありかつて同僚でもあった2人を誘って本当によかったです。
わたしひとりの関わりでは見えるものに限界がきて
その人たちとはきっとただの友達で終わったでしょう。
そのうちに、価値観が違ってきたり
ちょっと会わない期間が長くなったりすると
自然消滅してしまうような友情。
ただSNSで繋がっているだけの、友達という名前のついた他人。
円坐のおかげで、私は何人分もの人生を歩んでいます。
石切稽古会は、一般公募はしていますが基本的にお誘いした人が来ています。
私にとっては、石切円坐守人稽古会に誘おうと思う人には明確な区別があります。
それは、映画「マトリックス」で、マトリックスの外から来た人が主人公に
「目の前の平穏で退屈な世界は
実はコンピュータが人間を管理するために見せている幻想で、
現実は機械が人間を支配している殺伐とした世界なんだよ。」
ということを伝えたうえで、それでも現実の世界に行くことを選ぶか、
今の世界にとどまるかを尋ねるシーンと似ているからです。
「外」の世界は地獄かもしれないので「旬」の人以外の人を呼ぶことはできません。
なにもなく、誰も助けには来ず、しかしみんながまぎれもなくそこにいて、
ときに殺伐ともするがしかし、とてつもなく自由な空間、生駒石切円坐守人十六番稽古。
「マトリックス(仮想世界)の外の世界」を一年間共に生き抜きましょう。
有無ノ一坐 橋本仁美
【石切稽古修了生の言葉】
今年も残すところあと僅かとなりました。
この一年もおかげさまで円坐に関わり続けることができました。
円坐でご一緒してくださったみなさま、今年もありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、私が円坐に関わりはじめたのは2022年からですが、
それからの3年をそれぞれひとことで言い表すなら、
2022年は円坐と出会った年、
2023年は円坐を訪ねた年、
2024年は円坐が身近になった年。
そんなふうにいえるかと思います。
去年(2023年)は円坐のために石切に通いましたが、
今年(2024年)は千葉で円坐を開き、
さらには有無ノ一坐に自分の生活圏まで来ていただきました。
考えてみれば、円坐をするために訪ねていった大阪の石切・千代崎・高槻などは、
まさに有無ノ一坐の生活圏です。
また有無ノ一坐のみなさんは、実の親子であったり、
時に家族以上に運命を共にする間柄であったりします。
円坐のために訪ねたのは、
そういう4人の円坐守人の人生が脈打つ空間に他なりませんでした。
そして今年に入り、自分がこれまでの人生を送ってきた千葉で
自分でも円坐を開きはじめました。
そうやって円坐を開くようになってからずっと考えていたのは、
「円坐を開くことと人生が開かれること」というテーマについてでした。
ここ10年間(おそらくはそれよりずっと以前から)、私は、
人生に自分なりに真面目に向き合えば向き合うほど、
なぜか生活が狭いところに閉じていくという事態に直面してきました。
そして、もはやこれ以上後ろに退がればあとは
あの世に転がり落ちるしかないところまで追い込まれた時、
家を取り囲む竹藪を切り開き、2月の日の出前の寒気に震えながら大阪を目指したのでした。
ですがその後、"自分で円坐を3回開く"というミッションをやり遂げると、
今度は円坐の幟を立てた有無ノ一坐が、
はるばる竹藪のこちら側までやってきてくださいました。
ここ10年ほどの間、私は、自分が閉じ込められている場所と外の世界が
分厚い壁で隔てられているような感覚をもって生きてきました。
そんな「内側」の世界から出て訪ねていった「外の世界」である大阪は、
有無ノ一坐にとっては「内側」の世界だといえるかもしれません。
逆にはじめて足を踏み入れる我が家の竹藪の「内側」は、
おそらく有無ノ一坐にとっては「外の世界」だったでしょう。
このように、他者と関わりその「内側」まで踏み込み合うことは、
自分で勝手に設定した世界との間の境界を撹乱し、無効化することにつながるようです。
いまの私には、かつて自分の人生を狭い空間に閉じ込めていた
「内と外」を隔てる分厚い壁が、
実は薄い板にすぎなかったようにも思えてきて、
無意識に纏っていた武装が解けて身軽になってくるような感覚があります。
ただ、そうやって身軽になった分だけ無防備にもなったのか、
親子ほど歳の離れた百戦錬磨の"マムシ"にからみつかれ、
二週間にわたり広島、埼玉、大阪と転戦したりもしました。
しかしそれも結果として、激しく打ち合った相手だけに感じる
尊敬の念を抱くという経験につながり、呼吸する世界がまた少し広くなりました。
このように目の前にあらわれたひとつひとつの円坐に精一杯坐り続けるうちに、
自然と、閉ざされた人生も少しずつ広い空や海に向かって開かれてくる。
またそれと同時に、壁の内側に押し込められていた自分という存在が、
内と外の区別を失った広大な空間に流れ出ていく。
円坐はそんなプロセスを自分の人生にもたらしてくれているように感じます。
来年もさっそく一月から円坐を開きたいと思います。ご参加を心よりお待ちしております。
関東円坐研究会
守人 加倉井拓夫
【今年石切稽古に参加する人の言葉その一】
今年は大阪に毎月通い、
円坐守人稽古に参加します。
円坐に出会って10年以上。
ずっと大阪の稽古会に行かず、
東京で円坐を開いていました。
30代の僕は、
稽古会に行かずとも守人ができると思っていたんですね。
バカでした。
ここが自分がファシリテーションを越えれないところ。
ずっと自分だけの世界にいる。
技術だと思ってるから、自分で学んで高められると思ってる。
うまくできるための道。
人に会って、対峙する。
それしかないんです。
それをしない人に
苛立ってきたじゃないか。
それがしたかったのに、
何を守っていたんだか。
円坐は字の如く、
円くなって坐るだけです。
人しかいません。
あなたとわたし。
あなたとわたしを生きていく。
それしか無いんだと教えてくれたのが円坐です。
円坐に向かう僕の居所です。
2025年、どうぞよろしくお願いします。
【今年石切稽古に参加する人の言葉その二】
「無常という事」
円坐という舞台(世界)の中に居ると、人の面影が立ち上がる。
たしかに妄想なぞしてはいなかった。
そこに立ち上がる面影をしっかりとらえていたのだし、
鮮やかに浮かび上がる言葉をしっかり辿った。
余計な解釈は何一つ考えなかったのである。
解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。
記憶するだけではいけないのだろう。
思い出さなければいけないのだろう。
現代のファシリテーターが(人間ではなく)一種の動物のように見えるのは、
解釈で頭を一杯にしているので、心を虚しくして思い出すことが出来ないからではあるまいか。
上手に思い出すことは非常に難しい。
だが、それが「過去から未来に向かって飴のように延びた時間」
という思想(現代最大の妄想)から逃れ、
本来の「球体としての時間」を取り戻す唯一の本当に有効なやり方のように思える。
現代のファシリテーターは無常ということが全くわかっていない。
解釈で頭を一杯にして、
常なるもの(そこに立ち上がる面影、鮮やかに浮かび上がる言葉)
を見失ったからである。
【今年石切稽古に参加する人の言葉その三】
「私は対話型鑑賞法も手掛けていました。
あるとき美術館でこどもたちに対して対話型鑑賞法を行いました。
そしてこれはこどもたちに対してやってはいけないことだと感じました。
それ以来、対話型鑑賞法のファシリテーションはやっていません。」
【今年石切稽古に参加する人の言葉その四】
「ファシリテーターは物事を促進することはできる。
だけど自分はその道を歩かない。
ファシリテーターはファシリテーションをしたいのであって、
自分がその人との関係を生きたいのではない。」