円坐「現し世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」その2

円坐「現し世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」その2
【日 時】
2月15日(土)14:00〜16:30(13:30開場)
※2時間半の円坐/開始時間の30分前より開場します
【場 所】有無ノ一坐スタジオ
(大阪市西区千代崎2-20-8)
【参加費】3,000円
【守 人】橋本仁美(有無ノ一坐)
【申込先】hitomi.hashimoto918@gmail.com(橋本まで)
【主 催】松本裕子(こりん)・橋本仁美
・・・ ・・・
僕は実社会において仮面をかぶって生きている。
誰に嫌われること無くうまくやろうとする。
僕が他人を傷つけることで相手に敵認定されて被害者ぶられて僕が疎外されることを恐れている。
語弊を恐れず言えば被害者ほど強いものはいない。
被害者ぶって周りを見方につけて逆に攻撃してくるやつは意外にいる。
僕が仮面を着けるのは裏を返せば自分が加害者になる狂気があることを
日々感じているからでもある
僕はかなり攻撃的な自覚がある(故にどこか被害者的部分がある)
僕の言葉がきついと自称友人たちは僕によく言ってきた。貴方に傷つけられたと。
しかし彼らは僕が第三者に傷つけられているさまをみて
あとになってから「あいつに一言言ってやりたかったわ」とわざわざ言ってくる。
それが一番攻撃的で暴力的な言葉だと僕は思う。
第一回「現し世は夢、夜の夢こそまこと」円坐を終えて、
仮面を着けた普段の僕では言えないことを言った。
ただ伝えるべき人の顔をみては言えなかった。
ようは逃げたわけだ。
それが一番攻撃的で暴力的なことだと思う。
本当の言葉は優しい
それは別の円坐で経験した
ただ己の言葉が嘘は何も言っていない感じたままに言った
しかし、それがあの優しい本当の言葉なのかは分からなかった
故に言うべき相手を見据えて言えなかった。
円坐が終ってからの守り人橋本仁美さんとの振り返りの意見交換で、
自分の言葉が優しいものかどうか確かめるには
相対して見なければ分からないと言われた。
そのための練習の場でもあるのが円坐だと。
第二回目を2月15日開きます。
何処まで逃げずに相対せるかは分からない。
けれども逃げと保身の態度と言動が一番攻撃的で暴力的だと僕は思う。
優しくあるために逃げるわけにはいかない。
もう優しさの仮面を被った攻撃的で暴力的な人間たちとは関わりたくない。
そういう自分であるのも嫌だ。
何度円坐と影舞いの舞台を踏めば真の強い優しさが出てくるかは分からない、
だからこそ何度も影舞いを舞い円坐に座りたいと思います。
仮面を被らずに実社会で生きれるようになるためにも。
松本裕子(こりん)
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円坐では、自己紹介もなく
年齢も立場も肩書きも超えてテーマもなしに数時間を共に過ごし続けるので
即興で素の人間関係が起こり
守人含め、参加している各人のかかわり方の癖が出てきます。
私もどうやらこりんちゃんに負けず劣らず、
「人の話を聞いてしまう」ところがあります。
つい相手のペースに乗ってしまう私がいます。
なので、「聞いてもらうこと」に居心地よさを感じる人は
私の周りに住み着きます。
聞いてしまうのはなぜなんでしょう?
おそらく私にもメリットがあります。
しかし(私はドラマーなのであえて)音楽的にいうと、
相手の音を聞いてしまっているあいだは、私は私の演奏ができていません。
前回1/31の「現し世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」その1の円坐のことを
弟(橋本悠)と話していたとき、
「ドラムをたたくように最後までいけたか?」と聞かれました。
振り返ってみると、
最初は調子よくいけていましたが、
後半は、「ダレた」ような感触がありました。
参加者のひとりの人との関わり合いに耐え切れず
「これ以上付き合ってられんわ」となりました。
それで、「あなたとばっかり話すために円坐やってるんじゃないねん、
他の人、たとえば●●さんとも話したいわ」と言いました。
すると、名前を呼ばれた方が、
私に話しかけて「くださいました」。
私の思いを察して声を出されたのだと思いますが、
私は、自分の思いを告げ「●●さんと話したい」と言い
(私が自らその人に話しかけたわけではなく)
他の人たちに「私の思い」を共有して
「私の思いの方に動くように」空気をつくりました。
私に名を呼ばれたその方は
自発的に話されたように見えましたが、
私はその方に「話させた」と言えます。
ここまで断言できるのは、
私はその方が話してくれて都合が良いと感じ
流れに任せて身をひいたからです。
空気をつくるとそれに乗った人と共犯関係になって、
私の替わりに私の望みを叶えてくれる人間関係ができるので
それは楽ではありますが、それ以上私は私自身で演奏ができなくなります。
また、さらに振り返ると
最初に私と対峙した人は普段から付き合いがある方だったので
私はその人との関係がいまよりもっと真剣になり、これまでの関係が壊れうる可能性を感じ、
回避するために話す方向を変えたのだと思います。
そのときはとっさにそうしてしまったものの、
私がしたい円坐(=私が望む人付き合い)ではありませんでした。
ただ、その人との間柄をより真剣なものにはしたいのだが、かといって
やみくもに角を立て暴力的になりたいわけではないので、
そこをどうするかが今後の課題です。
このように、円坐守人は、都度都度、
自分がおこなった円坐の跡を振り返り、
次に臨みます。
「こうしたほうが良い」と指し示されるものはなく、
円坐のなかでただただ「今の自分の人付き合い」をやっていくので、
他の人間関係のメソッドのように、「こうやった方が良い」とか
「正解」がありません。
あともうひとつ振り返ると、ずっと重い空気で対峙し続ける状況に
ふと周りの人は大丈夫なのかと不安になって
参加者の一人に様子を尋ねたら、その人は
思いのほか楽しんでいたようで、
それを知った私が
「楽しんでもらえてよかったです」と
言ったこと。
私のその態度は私が気に食わなかったです。
場合によっては
「ひとみはこうしたらうまく操れるのか」と分かられて舐められるし、
へりくだって自分を蔑んで安売りしているような態度で
そんなゆるかったらお金いただいて
円坐なんてできねえよ!と思うからです。
そんなところで
「現し世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」その2の円坐に臨みます。
どなたでもお越しください。
ご縁のあるみなさまのお越しを心よりお待ちしております。
有無ノ一坐
橋本仁美