4月のいてまえ!板橋円坐影舞 ご案内
主催のローサ(益子智美さん)とはなす!円坐とは。
いてまえ!板橋円坐影舞
【日時】4月5日(土) 10時〜13時 影舞
14時〜19時 円坐
4月6日(日) 10時半〜17時
【場所】板橋区ロー助邸
(申込みいただいた方に詳細案内を送らせて頂きます)
【守人】 橋本悠
【参加費】影舞 5,000円
円坐 1日参加 10,000円
2日間参加 20,000円
【申込・問合せ】 ロー助(益子智美)
rosa.09.10.71@gmail.comまたはfbメッセンジャーまで
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~橋本久仁彦よりご挨拶~
昨日山口・福岡への円坐旅から戻りました。
萩のふるさと円坐街道では防寒具が足らないくらい寒かったのに、北九州市に入った途端一気に気温が10度も上昇し、顔が日焼けして赤くなりました。暑すぎてニットの帽子やハイネックのセーターをキャリーに詰め込んだらパンパンになりました。
しかし、この歳になって「他者」と真剣に対峙し、仕合える円坐旅で全国行脚できるのは本当にありがたいものです。初めての土地や気象、風景への慣れない旅が続く緊張感と、出たとこ勝負の円坐舞台の「野生の現場」が僕の意識を研ぎ澄まし、加齢とともにゆるく、ぬるくなりがちな精神と身体を常に新鮮によみがえらせてくれます。
円坐ではっきりと他者と自分に出逢うと、他者と自分が「唯一無二のあなたとわたし」に生まれ変わって「人生の旅の道連れ」となり、次に向かうべき新たな旅路と現場が現れます。こうして有無ノ一坐は日本各地への円坐旅に明け暮れる人生を生きています。
今月末の石切守人稽古を終えて4月に入ると、有無ノ一坐はまずオデッセイ(長い旅路の意)で四国香川の三豊へ向かい、大阪から船で北九州、津屋崎、博多へ、さらに四国徳島応神町での円坐を経て、熊本県で有無ノ一坐が初めて主催する「火の国円坐」には空路で向かいます。途中で橋本仁美と橋本悠はそれぞれ単身で東京へ向かい、板橋で円坐影舞と音の円坐舞台を作ります。
四国や九州で会場を準備してくださる円坐世話人の方々から人間的な土着の魅力あふれる言葉を頂いており、はやく皆様にお届けしたいと気持ちは焦るのですが、ここはまず有無ノ一坐橋本悠が東京での円坐舞台へ向けて発した言葉を末尾に掲げたいと思います。
円坐は未知の生命感にあふれた人間関係の舞台です。共通する哲学や理論は持ち合わせず、有無ノ一坐の四名や坐衆の方々の個人と個人のぶつかりあいから毎回新たに出現する「円坐人間舞台」です。そのため円坐を仕切る各守人は、それぞれ100パーセント自分自身の独自の言葉で「自分が仕切る円坐」を説明することができます。
橋本悠の言葉と思考の姿勢はその中でも最も実践的な特質を備えており、理念や精神の世界に傾く僕などは、自分とまったく違う切り口で発せられる橋本悠の言葉を、毎回目を開かせられる思いで繰り返し読み、自分の稽古のために書き写しています。日々の人間関係を生きる皆様にはどのように彼の言葉が響くのでしょうか。
たとえば、
「優しいけど触れられない人間関係ではなく、参加者全員がリアルに接触する現場」
「衝突しないことに重きを置きすぎていて、その結果他人との会話が難しくなり、コミュニケーションの正解が見えず、人との関わりがさらに億劫になる悪循環」
「円坐は、ワークや条件を挟まない、限りなく私生活同様の人間関係の現場」
「常に第三者がいる ・対等を守る守人がいる ・時間が決まっている ・時間いっぱいは一方的に逃げたりできない」
「追求し体験するのは参加者同士の本物の人間関係」
これらはまったく僕の言葉ではないのに、僕がカウンセリングやエンカウンターグループと出合った40年前の若い頃から、ずっと胸に秘めていた違和感と疑問のど真ん中を見事に射抜いていて痛快です。
自分が関わってきた多くのグループメソッドやセラピーが退屈になり、カウンセラーやファシリテーターとしての自分にまったく魅力を感じなくなってやめてしまった「古ぼけた爺さん」の僕ですが、橋本悠の電撃のような言葉と舞台づくりの姿勢にふれると、若い血潮が再び新たに燃え上がってこの現代世界とはっきり対峙して仕合いたくなり、もっともっと深く勉強したくなります。
2025年春4月、口承即興円坐影舞 有無ノ一坐は、舞い散る桜の花びらとともに東西へ翼を広げます。「きくみるはなすかかわりあう」桜前線円坐舞台の東の一翼を担う円坐守人、有無の四守人「悠久弘仁」の気迫の一角、橋本悠の言葉と姿勢をご高覧下さいませ。
口承即興円坐影舞 有無ノ一坐
橋本久仁彦




~板橋円坐影舞 守人 橋本悠より~
こんにちは、橋本悠です。4月の「いてまえ!板橋円坐影舞」のご案内と簡単な説明です。
4/5(土)午前中の影舞では、あえて言葉を使わず、決められた時間内だけ身体のみを使って他人との接触を試みていきます。
普段の生活では頭を使って、人との衝突を避けながら過ごしているものですが、言葉を使わず(頭を少しオフにして)身体に集中することで、普段の自分では気づかない無意識なものがはっきりと立ち上がり始めます。
身体には、今までの人生経験の蓄積からくる、正直で嘘のない表現の感情というものが備わっています。自分の身体がいつも無意識に出している表現であったり、知らないうちに溜まったストレスからくる身体の悲鳴のような動きも見つけることができます。
また普段は頭で考え、行なっている人間関係や他人との接触ですが、影舞では無意識に自分が、他人や人間関係に向けている感情や、想いからくる仕草などを発見する機会でもあります。
普段は人との衝突を避け、大きな事や小さい事、あらゆる事を我慢したり妥協して生きています。頭の方では忘れてしまったり、感情を発散できればそれで終わったように感じますが、身体のほうには実体験の感触として残り続けています。
そういった頭で考える自分と、身体で感じている自分との、差異を見つけ出す事もできますし、さらに掘り下げていけば、今までの人間関係や問題で、これ以上触りたくない、考えたくないと感じていた事に触れて行けるようになる切っ掛けにもなるかもしれません。
後半からの円坐では、影舞と違い、身体は座ったままで言葉を使い、さらにじっくりと自分や他人との、人間関係の内側を覗いていきます。参加者とは別に、私は守人という役割で坐ります。
影舞のように無意識な動きを見る、という物理的に観測しやすいものではないので、少々時間がかかります。その為、1日だけでは実感を得にくいので、2日間の開催としています。連続で参加して頂けると、円坐というものの内情を理解しやすくなります。
円坐では、普段は頭で考えとても大事にしてきた秩序だったり常識と言われるものが、自分にとってどの様な抑圧や、勘違い、思い込みという仮面になって張り付いているかを、時間をかけて少しずつ理解していく時間と作業になります。自分の人間関係であったり、自分自身のことや過去の思い出も再発見していけます。
参加者同士は対等という条件で進めて行く為、片方が一方的に話をしたりはできず、反論を受ける事もあります。またご自身の仮面が剥がれてくるにつれて、今までの自分では言わないような発言をし始めたり、感覚を覚え始めて、他人に迷惑をかけると感じ、戸惑うかも知れません。そうして自ら対等という立場を降りようとした時、または他者から対等を害されるような発言や威圧をされた場合、守人が関わり「対等で純粋な人間関係の現場」という円坐の時間を守り抜きます。
守人に助けられることもあれば、対立することもあるかと思いますが、これは個人的な感情からではなく「対等で純粋な人間関係の現場」を提供するために行なっていることです。
ワークショップで遊びを取り入れて行うような、優しいけど触れられない人間関係ではなく、参加者全員がリアルに接触する現場としての機能を優先して場を進めて参ります。対等であるが故に、時折意見が食い違ったり、衝突することもありますが、我々は普段の生活で、衝突しないことに重きを置きすぎていて、その結果他人との会話が難しくなり、コミュニケーションの正解が見えず、人との関わりがさらに億劫になる悪循環に陥っています。
ですが私生活では、いつも第三者や守人というものがいるわけではないので、慎重に衝突を避けるのはもっともです。円坐は、ワークや条件を挟まない、限りなく私生活同様の人間関係の現場を目指して進めていきますが、普段の人間関係と違うのは ・常に第三者がいる ・対等を守る守人がいる ・時間が決まっている ・時間いっぱいは一方的に逃げたりできない というところです。リアルな人間関係の現場ですが、特異で作られた舞台的な空間でもあります。
追求し体験するのは参加者同士の本物の人間関係ですが、円坐という仕切りの中で行なっているので最低限安全です。しかしそのおかげで本性も見えやすく感じやすくなります。自分と他人、その接触と、「人」というものを非常に感じやすい場です。
残念ながら人間関係には正解がありません。円坐では、正解はないものの、なんとか前に進むための光明を見つける「人間関係」という作業を行います。現時点の自分に纏わる人間関係に、不可能さや、どうしようもなさを感じている方は、是非ともご参加ください。守人含め、参加者全員で前に進めていければと思います。
有無ノ一坐 橋本悠
~板橋円坐影舞に向けて 主催・益子智美より~
私は影舞が好きです
ちょっと苦手というか、どうしたら良いのかわからなくなった時もあるけれど
いてまえ!板橋円坐影舞が始まって
影舞を改めて面白くて、愉しいなと
同じ人と影舞をしたとしても
触れた時に感じることは毎回異なる
感じる事が異なるから影舞も同じにはならない
触れてる面積は指先とかだから
何がわかるの?と思うかもしれないけど
結構色々と感じるもので
感じた所から返答というかやり取りしていくと
円坐では感じた事を話すってなんだろう?とかわからなくなってた事も
ほぅ!こういう事かと身をもって感じて
難しく考え過ぎていただけなんだなと
難しくっていうのは相手にわかるように説明しなくてはいけないとか
自分の状態や感情に正直なというよりは
相手への何か忖度というか、よく言えば思いやりなのか
ただ嫌われたくないだけなのかそんな事で
感じた事そのまま言葉に出来ずにオブラートに包むと
どんどん感じていたところから脱線していって
収集がつかなくなったりして
はっとする、ゾッとする、どきっとした
っていう時は体感としても感じるし
だから身体とか表情とかにも漏れてしまう
日常でも沢山あると思うけど
そんな感覚を自分でなかった事にしたり
他人(ひと)は気づかないふりをしたりする
何でなかった事にしてるのか?
気づかないふりをしたりするのか?
自分の都合や誰かの都合で
せっかく感じたのに消し去った些細なことが
チリも積もればで降り積もって
誰かと関わるということだけでなく
自分とどう関わったらよいのか?も見失っていくのかなと
円坐と影舞でゆるゆると流れる己の血の暖かさを感じてほしいと思います