愛知県岡崎市 第9回ボスケ円坐
6月15日の日曜日に愛知県岡崎市の第9回Cafe BOSQUE(ボスケ)へ参ります。
主催は子育て中のお母さん、石原ななこさんです。
17日には千葉市で第13回関東円坐研究会が開かれます。
守人は石切円坐守人十六番稽古に一年間通って来られた加倉井拓夫さんです。
先月開催された北海道鷹栖円坐を主催した湯本じゅんきさんが円坐後の所感を寄せてくださいました。
三人の言葉を後段に掲載いたします。
円坐は主催される方が発する言葉から「唯一無二のかかわりあい」のドラマが始まります。
主催される方の心境や背景、そして住んでいる土地や風土から始まる円坐舞台の旅路は、一つとして同じものがありません。
「円坐とは何か」という問いには、
「円坐とは主催者の生き様である」と答えることが出来ます。
最も適切な「円坐の説明」は、日本の各地の円坐主催者の言葉の中に示唆されています。
「円坐に参加する」とはその土地に住む主催者とかかわりあいになるということ。
そして一度生じたかかわりあいに「終わり」はありません。
円坐におけるかかわりあいは、我々の作為ではないからです。
では、愛知と千葉と北海道に住む三人の円坐主催者の言葉をご高覧くださいませ。
口承即興円坐影舞 有無ノ一坐 橋本久仁彦
☆
生きる意味ってなんだろう
自分ってなんだろう
そんなことを
たしか考えていた20歳ごろの自分がいて
気づいたら、その半分の年月が経っていて。
時の流れとはおそろしい。
20年。
すごいな。
まぁなんだかんだいろんなことがあったけど、
過ぎてしまうと、ほんとにあっという間で。
あの頃の悩みはまた別のものにかわり、
中3になった、学校行ったり行かなかったりな長男の未来について悩んだり、
思春期にさしかかる、長女とのやりとりについて考えたり(こちらの受け答え次第で機嫌が一瞬に変わったりして、とゆうかどう対応してもそうゆうときはたぶんダメなんだけど、考えちゃうよね苦笑)
末っ子次女は、とりあえず可愛くて。笑
悩みとゆうものは、いつでもなにかしらあって
それが消えるなんてことはないけど(それが人間なのかも)
でも、それがあったから今がある、と思えるような自分ではいるつもりで。
20歳のあの頃みたいに、生きる意味とは?と、熱く真剣に思ったりはしてないような感覚が、少し寂しくもあるけど、
でも、40代で亡くなる人のニュースをみたりすると、あと何年かで死ぬとしたら、どうするわたし?とか、そんなことを考えたりする。笑
なんにせよ後悔せずに日々を生きていきたい。
生きるとゆうことは、いかに自分のことを知って受け入れてやっていけるかとゆうことを学ぶ時間なのかも?
至らない自分、変わらない自分、それでも必死にもがいてる自分。色んな自分がいて。
どんな自分も、なるべく目を逸らさず向き合う先に、見えるなにかがきっとあって、それに触れたくてわたしは円坐をしたいのかもしれない。
それは、なんだかんだめんどくさい作業だから、そんなにしたいわけではないんだけど(笑)、でも、やっぱりやって良かった、って思う時間になるのはいつものこと。
そんなわけで、告知もずるずる先延ばしにしてしまい、今ごろ告知ですが、来月6/15(日)、大阪より橋本久仁彦さんをお招きして、円坐・影舞・未ニ観の場を開きたいと思います。
なんと第9回目。
なんだか気になる、興味がある方、お気軽に問い合わせ、ご参加、お待ちしております
石原ななこ

第9回ボスケ円坐
日程 6月15日(日)
場所 Cafe BOSQUE(ボスケ)
時間 11:00〜17:00 (お昼休憩あり)
参加費 12000円(場所代、昼食、お茶代 込み)
※アレルギーなど食べられないものがある場合は、事前にご相談ください}
講師 橋本 久仁彦さん
有無ノ一坐坐長
高野山大学スピリチュアルケアコース講師
参加希望、お問い合わせは
DMまたはtabysea@icloud.comまで
講師プロフィール



☆★
【関東円坐研究会・第13回稽古会ご挨拶】
円坐では人間関係ということがよくいわれ、さらには、誰かとの関係は例えその人が亡くなっても決して終わらない、ともいわれます。
これは、わからなければさっぱりわからず、わかった気になろうと思えば案外そうなれてしまう考え方のように感じます。
私は田舎育ちで、お盆を比較的大事にする家庭に育ったので、「お盆は死者の霊が帰ってくる日」という考え方には小さな頃から親しんできました。
だから円坐でいわれる"死してなお続く人間関係"ということも、なんとなくお盆みたいなことかな、とはじめは思いました。
しかし、同時にそれよりももっと独特のなにかが語られているという予感もありました。
橋本さんや松岡さんがこれまで積み重ねてこられた円坐の話を聞くと、「そこまでやるのか」という感想を抱くことがあります。
生きていま目の前にいる人と本気で関わりきると、その人の存在が自分の中に深く刻み込まれる。
そうやって深く刻み込まれた存在は、物理的に遠く離れても、あるいはもうこの世で会えない状態になってもいきいきと存在し続ける。
円坐とはそういうところに至るまで目の前の他人と関わろうとする試みなのかもしれません。
円坐がしようとしていることについてこのようにとらえてみると、逆に円坐が"それでないもの"としてよく引き合いに出される「マニュアル」について考えてみたくなります。
マニュアルとは、いつ・誰が・どこで実行しても大体同じように再現されることを目指して作成されるものだといえます。
こうしたマニュアルというものは、確かに円坐が求めるものとはきれいに正反対のことを目指していることがよくわかります。
円坐は、いつ・誰と・どこで行うかが決定的に重要なのであり、だからこそ「会いたい人に会いにいく」のだと思います。
円坐の本質を以上のようにとらえた時、正直にいえば、自分が月一回開く稽古会はそのような意味での円坐にはなっていないといわざるを得ません。
なぜなら、それを開く自分の立ち位置は、誰かが会いにくるのを待っている状態だからです。
それなら稽古会は円坐ではないのかというと、そうともいえないと思います。
私にとって円坐は、抽象的な方法論ではなく、具体的な生身の人間から伝えられた営みです。
だから自分が円坐を開く時、そこにはいつも円坐で共に坐った人々の存在が一緒に坐っています。
稽古会は"待ち"の円坐ですが、守人である私は、これまで自分が円坐で向き合ってきた全ての存在とともに、いま現に生きている誰かの訪れを待ちます。
6月もそういう姿勢でご縁のある皆様のご参加を心よりお待ちしております。
関東円坐研究会
守人 加倉井拓夫
<関東円坐研究会・第13回稽古会>
日時:2025年6月17日(火)13:30〜16:30
会場:千葉市内(詳細はお申し込み後にお知らせ致します)
守人:加倉井拓夫
参加費:3000円
お申し込み、お問い合わせは下記メールアドレスにお願いします。
enzakeiko.hk@gmail.com
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<湯本じゅんき氏北海道鷹栖円坐所感>
遡れば4月が終わる頃から、我が家でのふるさと円坐街道は動き出していました。
大事な客人を泊めるとなれば、家の掃除にもまた自ずと気合いが入るものですね。
毎日毎日、時間をみては「我が家」と向き合う。
自分とその家族が住む「わたしのおうち」が、静かにこちらを見ているような、普段ではそう味わえない心地をぼんやりと覚える中で、
少しずつ、己の心身ふくめ、妻やこどもたちとの時間、いろんなところがいっそう整ってゆくのを感じていました。
そうして迎えた当日。
待ちに待った大切な客人ひとりひとりが、我が家の中で思い思いに、とても良い時間を過ごしてくれていて、そんな光景が思いのほか、胸が熱くなるほど嬉しかったのでした。
そこにまた、いつもと少しちがう妻やこどもたちの姿もあって、いつもよりどこかしら家が明るいようにも見えました。僕以上に、「わたしのおうち」が静かにとても喜んでいるような、ちょっと不思議な感じでした。
さて、そんな中で行われた今回の「円坐」の時間は、僕にとっても心底忘れがたいものとなりました。
今この場に参じてくれた、己が道を訪ね続ける人生の旅の人たち。
そこに僕もいて、さらには時間を重ねてゆく中で、ここに居ないはずの縁ある人たちや、今は亡き人たちの面影までもが自ずと次々に、はっきりとあらわれてきて。
大きな繋がりをここでも感じたのでした。
自分に元気がないようなとき、それでも頑張らねばならないとき、頑張れるのは、そんな繋がりの中にある大切な人たちの面影を想えるからこそなのだと、改めて知りました。
円坐の最中も、故郷にいる父や母のこと、共に歩む妻や子たちのことを思い起こし、背筋が伸びてゆくような瞬間がありました。
自分ひとりだけの想いでは、どうしても辿り着けない境地があるように思います。
こんなふうに、真剣に向かい合いかかわれる「あなたとの時間」が、わたしを生かしているように思います。