円坐影舞山月記〜奈良吉野八景旅
五月の円坐影舞山月記は、奈良県吉野へ参ります。
ご縁あって先日大阪千代崎 未二関(みにかん 未二の関)千夜稽古会にお越しいただきました関由美子さんの暮らす奈良県吉野郡の玄関口・大淀町へ行ってみようよ!という話しになりました。
三年前奈良五條天誅円坐開催の折、吉村寅太郎さんの資料館や墓所を訪ね歩き、道々円坐をしながら影舞を置きました。
その時ご一緒した山下薫さんは資料館で凄まじい若き志士達の軌跡を辿り、彼らがこの世にいた証をこの五條で若い後世に語り継ぐ岡さんという方の存在も知り「凄いなぁ、日本もまだ捨てたもんじゃないなとあらためて思いました」としみじみ仰った声がとても深く残りました。
そしてもうお一人天誅円坐をご一緒した芳野学さんは御礼のお便りの中でこのようにしたため、送ってくださいました。
「四万十、五條、吉野へ連れていっていただいたので大きなスケール、それは冒険と呼ぶにふさわしいスケールを実際に体験し、そのことから話の内容は違いますが、南総里見八犬伝を思い出しました、そういったことを実体験したと思います。」
実は「茶堂」や「大師堂」という建物が四国の街道辻には沢山あり、吉村寅太郎さんが生まれた高知の梼原には特に茶堂が多く、ひとみちゃんの第二の故郷高知県四万十町でのふるさと円坐街道で茶堂に立ち寄りました。
先日の未ニ関稽古会にお越しいただいた高知生まれの関由美子さんは、この四国の「茶堂」に惹かれて実際に建築され、コミュニティスペースとしてこの世に生み出されました。
関さんの功績は大変社会的評価の高いものです、が、実はあの世の目に見えない存在からの呼び声に召喚された仕事でもあるという事を教えてくださり、わたしは祖母の声を聞いている時のような、叔父の仕事にふれている時のような質感を感じ、深いところで震え感動しました。
これは芳野学さんのおっしゃる大きな冒険のスケールとしての往相還相の茶堂(相聞茶堂)と通ずる精神があり、今回ふたたび吉野へ参る運びとなりました。
これは個人の趣味や、好き嫌いとか有意義だから行くとかいうレベルのものではなく、この世の旅にとどまらない壮大な冒険のスケールを感じています。
実は吉野の門戸にあたる奈良県五條はあまり知られていませんが明治維新発祥の地です。天誅組の変は約40日で終わります。吉村寅太郎さんは東吉野村で銃兵の砲火を浴び亡くなりますが、以下の辞世の句を残し幕末の人々の意識を大きく変え後々まで影響を与え続けていました。
吉野山 風に乱るる もみじ葉は
我が打つ太刀の 血煙と見よ
吉村寅太郎さんは、萩のお彼岸円坐で出会った萩の町の人々の中に今も生きる幕末の志士たちにも影響を与えました。
新たな時代の突破口を切り拓き、歴史を変えてしまう出来事は、実は、この世とあの世を通した絆で切り拓かれていて、
激流の時代を切り拓いた人々と、たとえ短い人生であっても最期まで人と生き抜き、死してなおこの世の人々と仕事をなす人の生き様はどちらも永遠に人々の中に生きるのだと、わたしは友人の門戸さんの生き様と死に様から教わりました。
先日門戸大輔さんの葬儀に参列しあらためて彼とこれから先も共に円坐し、約束した通りあの世でも会い、そしてまたこの世でも会う、そうした関わりあいの球体時間としての縁坐舞台がまさに、ようやっとたちあがらんとしています。
もしよろしければ、このたびのご縁をお待ち申し上げております。
有無ノ一坐 松岡弘子


< 円坐影舞山月記〜奈良吉野八景旅>
・第七回 5月10日(日) 10時〜18時
・参会費 1万円
・申 込 enzabutai@bca.bai.ne.jp 橋本久仁彦まで
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円坐影舞山月記 宣言
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円坐影舞の実存的世界から、
山と月のどちらか一方が消えてしまっても、
円坐でも影舞でもなくなってしまうように、
影舞も円坐も、
そもそもは、他者との関わりあいです。
独りきりで円坐も影舞も成立しません。
真剣にかかわり続ける相手がいるから、
揺れるのであって、
それがシンドくて、
早々に自分だけ楽になってしまえば、
元々あった絆も断絶してしまいます。
人と真剣に向き合い続けていくと、
どんどん下手者となって、
意識的に見せることは不可能になります。
臨在とともにあらはれる真の姿は、
向き合う相手の背景に照らされて、
微動し続ける影身=光となります。
ところが相手と会わず独り孤立してゆくと
徐々に腐り始め闇に覆われて固くなります。
人に会いに行き新鮮な世界を取り戻すと、
この世の音も景色もよみがえり始めます。
これこそが、
球体的時間(円坐)であり、
とわの影身(実存的影舞)世界であります。
口承即興円影未二 有無ノ一坐 松岡弘子
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皆様。
42歳で大学のカウンセラーの仕事を辞した僕は、今から20数年前に、自宅で「非構成的エンカウンターグループのファシリテータードレーニングクラス」を開催しました。
職場での人間関係に悩む友人に、「人と本当にかかわれる実力を身につけたい」と強く要請されたことがきっかけでした。
しかし、「非構成的グループのファシリテーション」の「やり方をトレーニングする」ことは、自分自身の体験から言えば不可能であることを予期した上でのスタートでした。
“The way to do is to be.”
と、非構成的エンカウンターグループの創始者であるカール・ロジャーズが記したとおり、「あなたとわたしが今かかわりあいながらここにいる」という動的で全体的な存在の事実は、対象操作的な「やり方」や「方法」でとらえようとするとまったく見えなくなってしまいます。
我々が「ここにいてかかわりあっている」という出来事は、主体と客体に分裂した二元世界ではなく「ひとつの全体世界の出来事」であるからです。
にもかかわらず、ファシリテータートレーニングクラスは毎年参加者を得て、中断することなく20年以上続き、
現在は「生駒石切円坐守人十六番稽古」として、毎月一度、日本の各地から通って来られる8名の方々と有無ノ一坐の4名が、13か月間にわたる「通し円坐」を行っています。
この20数年の間、非構成的グループのファシリテータートレーニングクラスに参加してくださった方々のほとんどは、ご自分の関心から一瞬も離れず、自分の生活に役立つ様々な「気づき」や「体験」、「新しい考え方」や「成長」などを得て、それぞれの人生に戻って行かれました。
しかしこの10年ほどの間に、新しく有無ノ一坐が形成される動きの中で、僕にとっての非構成的エンカウンターグループは根本的な変化、もしくは転回点を通過しました。
ファシリテーターのファシリテーションによる「エンカウンターグループ」ではなく、円坐守人の実存的かかわりあいによる「円坐」になったのです。
ナマの人間同士の「かかわりあい」を客観化、対象化、専門化した「傾聴」「共感」「受容」などの「エンカウンターグループのファシリテーション」が消え去って、円坐守人という特定の個人の全面的、全体的、実存的なかかわりあいが自由に発揮される場になりました。
我々は、この5、6年の生駒石切円坐守人十六番稽古に参加された方々の中に、「非構成的エンカウンターグループ」で見られる「気づき」や「主体性への成長」や「自己実現へ向かう傾向」とは異なる、存在論的な生きる姿勢や態度の変容を確認しています。
円坐という実存的、全体的な現場で参加者に訪れる変容の兆しは、我々には予測できないその人独自の言葉で表現されます。
いわく「僕の人生に人間が入ってきた!」
いわく「頭がパッカーンとなって」
いわく「わたしは試合に負けちゃったんだ」
これらの人々の言葉は円坐を通じて個人的、全体的なかかわりあいを継続している現場の、ある時ある場面で発せられたもので、その場にいた者は、その人の呼吸と態度から、「日常性を越えた存在の開け」、もしくは「精神的な空間が照らされるような拡大したリアリティ」を体感することができます。
それは気付きを重ねてその人が成長したり、意識の高い人間に変わったわけではなく、彼らの見かけの性質は以前とまったく同じ人物のままです。
むしろ、その人とかかわりあって一緒に生きている我々の方が、その人の呼吸や言葉や態度から、「大きくて広くて温かくて自由な何か」を感受し、それを継続的に体験するようになるのです。
しかし、その人自身には他者にそのような影響を与えている自覚はないし、その意志も動機もありません。
ですからこの変化は主体的なものではなく、本人が客観的に認識できるものでもありません。
それは、その人の「自分という意識の外側」にいて、「絶対的に操作不可能な他者」としてかかわりあっている者だけが、その人の存在の背景に「無垢な全体性」として体験することができるものです。
その透明な全体性の中で、かかわりあっている個性的な存在は、お互いに決して失われないことを発見します。
我々は、有無ノ一坐として日本各地の人々とかかわりあう中で、人々が他者と部分的、客観的にかかわりあうのではなく、自分の存在全体でかかわりあい、愛し合いたいという無意識的な衝動によって突き動かされ、迷い、苦しみ、試行錯誤する姿とご一緒してきました。
「他者と存在全体でかかわりあう」ことへのこれほど強い衝動が、無意識的にではあっても人類規模で無数の人々に共有されたのは、有史以来初めてのことであると思います。
「円坐影舞山月記~かかわるわたしと実存するあなたの発見」は、以上のような歴史認識と世界の現状の認識に従って活動している民衆芸能者の一坐、「口承即興円影未二 有無ノ一坐」の坐長橋本久仁彦と、副坐長松岡弘子が開く円坐影舞の舞台現場です。
円坐影舞の現場は、観察し、客観化し、対象化した自分と他者ではなく、「全体のわたし」が「全体のあなた」にかかわるので事前に観察できず、客観視できず、対象操作もできない「未知のかかわりあい」が生きている現場です。
我々の実際の人生に本当の安心や安全が存在しないのと同じように、円坐影舞にも安心や安全はありません。
そのかわりに、「お互いに対して本当に生きている仲間」の、自由な、温かい、誠実なかかわりあいの永続があります。
円坐影舞山月記は毎月二回、我々が大阪に滞在している日程を選んで不定期に開催いたします。
皆様の心の奥底に訪れた小さな直観と一緒に、どうぞおいでくださいませ。
ご縁をおまちしています。
口承即興円影未二 有無ノ一坐 橋本久仁彦


