有無ノ一坐2026年5月円坐舞台ラインナップ
前回、門戸大輔(もんこだいすけ)氏と寿町で一緒に円坐に坐りたい、とPCを開いてキーボードに打ち込んでいたのは4月19日でした。
その日、4月19日に、門戸大輔さんは未二の関を越え、彼岸の人となりました。
その二日前、4月17日の15時14分に、門戸さんから「ふるさと相聞茶堂」主宰の松岡弘子(くぅ)にメールがありました。
「くぅさん。
木曜日に開催されるふるさと相聞茶堂、欠席します。
先週から入院し、一昨日からは緩和ケア病棟に移りました。
体調はなかなか厳しい状況です。
ご相談なのですが、病室で円坐を開くことはできますか?
門戸大輔。」
そこで我々は、4月23日木曜日に高槻市で予定していた「ふるさと相聞茶堂」を、京都医療センターの門戸さんの病室で開催することにしました。
門戸さんから了解のご返事があったのが4月17日金曜日の22時19分です。
相聞茶堂参加予定の川浪スヱ子さんや山下薫さん、奈良のアラキさんに状況を伝え、門戸さんと病室のベッド越しに影舞をするつもりで曲とスピーカーも用意して楽しみにしていた矢先、妹さんより、4月19日の夜に門戸さんがご逝去されたとの報が届きました。
こうして2026年4月23日の木曜日、第49回目のふるさと相聞茶堂は、享年55歳の門戸大輔さんのご葬儀の日の開催となり、我々は一日中降り続く強い雨の中をオデッセイに乗って一路京都に向かい、門戸大輔さんのご葬儀に参列することから「ふるさと相聞茶堂」を開始したのでした。
花に囲まれたお棺の中の門戸さんの顔は、まるで粘土で作られた物体のようで、「表情」というものが抜け落ち、かつて見送った僕の父や母とまったく同じ「冷たく固い感触の、物質としてのご遺体」としてそこにありました。
しかし、円坐で深くかかわりあった人物のご葬儀は、通常の「お葬式」の経験とは大きな違いがあります。
ご遺体から2メートル左側に机があり、その上に置かれたPCの画面に、門戸さんの人懐こく生き生きとした表情が大きく映し出され、我々に向かって「人間と人間がかかわりあうこと」について語りかけていました。
モニターの中の門戸さんが、実際に向かい合って語りかけている、姿の見えない聞き手は松岡弘子です。
門戸さんは自身の最期を予期した上で、6月に東京で「ドゥーリアのボールルーム」という、異なるマイノリティが交差する居場所をテーマにしたインスタレーションのイベントを企画していました。
イベント用のインタビュー映像の収録にあたって、門戸さんは有無ノ一坐の松岡弘子をインタビュアーに指名したのです。
スタッフのカメラマンは撮影のために通常のインタビューを指示したのですが、門戸さんと松岡弘子は、インタビューではなく未二観の時空間を作り出しました。
そのためPCのモニターからは、門戸さんの圧倒的な「生きている存在感」が葬儀場全体に広がり、我々は、冷たく硬い「ご遺体」とは明らかに位相が異なる門戸さんの「生きている実在」を、リアルタイムに感じ取ることになったのです。
門戸さんと我々は、「円坐」を通じて初めて人間として出会い、人生の最期の日までかかわりあうことになりました。
「円坐」とは、生死を貫いて個人の一生を形作る「人生態度と人生態度のかかわりあい」です。
人生態度のかかわりあいは「仕事の“プロ”としての関係」ではないので、私生活を分けて確保したり、顔の見えないフォロワーの数を意識したり、固定化したプログラムやワークを多人数に用いて操作することはありません。
円坐は、「個人的で全面的なかかわりあい」が、「他者という存在への情熱として」無期限に継続する人間関係です。
相手の存在への情熱が無期限に継続するかかわりあいは、現代世界の状況を全面的に受け入れ、「自分」という存在条件を100パーセント生きることを志す人間にとって、必要不可欠な体験と認識を生み出します。
それは、相手や状況に対するひそかな“飽きた感じ”や退屈感、ほんのわずかであっても確かにそこにある無意味感や空虚感、ふと心に吹き込むすきま風のような今の自分の生き方の“つまらなさの感触”を、他者への共感や自己肯定を優先して隠す必要はないということです。
それが確信になり、生きる姿勢になることで、未知なる全体に向かって上昇する人間同士の覚醒したかかわりあいが生まれます。
そして、ふたりの人間が互いの存在の状態を隠さず、目を覚まして真剣に対峙し、仕合い、かかわりあうとき、ふたりの間にひとつの「肉体を持たない共振器官(知覚器官)」が形成されます。
門戸さんの「冷たく硬い物質のご遺体」と、PC画面から輝き出る門戸さんの情熱に満ちた「実存」が、別々の「身体存在」であることを感じとり、明瞭に認識することができるのは、我々の肉体の眼が見開き、耳が聞き開くように、ふたりの人間のかかわりあいの熱量によって、柔らかな精神的知覚器官が「開く」からです。
現代社会には、我々の意識を、誰にでも分かってもらいやすい平均化されたバーチャルな自己イメージに惹きつけ、現実の人間から注意をそらせるための情報や体験があふれています。
たとえば、人間関係を知的に外から観察して心理学的解釈を貼り付け、「あなたは幼いころの親との関係で受けた心の傷を癒せば真の愛情を得ることができる」というような、抽象的で傲慢な情報や治療体験を追いかけている場合、ふたりの人間の精神的知覚器官に変容すべき「現実のかかわりあい」は存在することができません。
自己イメージを追わず、まなざしを反転して、未知の全体人間として他者とかかわりあう情熱を余さず生きるとき、我々人間が死後も明確に維持するもうひとつの「情熱の身体」を持っていることを知覚することができます。
世界の聖典や経典には、この「もうひとつの身体」についての一定の名称と説明が記述されていますが、我々は円坐に坐るただのひとりの個人的人間として、他者やこの世界に直接、新鮮に向かい合おうとしていますので、ふたりの間に生じる「存在を知覚する精神的器官」の形成を妨げたり、思考力が自己イメージから自由になることを阻害する「誰もが知っている用語」は、できるだけ用いないようにしています。
門戸さんがイベントの挨拶文に記した『その手前にあるその対象が持つ共振性』とは、円坐の現場で既成の概念を手放し、人生全体の熱量と透明度をもって直接相手にかかわりあう当事者同士だけが知覚する「実存の共振」のことです。
『その対象が持つ共振性』すなわち「実存の共振」は、葬儀場の門戸さんと、その場にいる我々全員を一瞬で貫き、包み込む「共振感覚」として、葬儀の立会人全員が感じとりました。
お葬式なのに、門戸さんのお母様を含む全員が、生前よりももっと生き生きと生きている門戸さんに触れている感覚と雰囲気があり、悲しみの涙はなく、みんな少し不思議そうな表情を見せていました。
物質と時間を超えたこのような位相が、我々の「もうひとつの情熱の身体」の属性であり、所作であり、態度です。
この「態度」とは、『わたし、ではなく』人生の現場が必要とするときに、24時間いつでも訪れて『その場に確信が表れる』ような、肉眼には見えない形式の存在によるかかわりあいです。
※(『』は門戸さんの挨拶文からの引用)
たとえば有無ノ一坐の四名や、日本各地でかかわりあいの場を開く円坐守人は、「態度同士のかかわりあい」、すなわち「今ここの位相にしか存在しない情熱身体の共振と磁場」の中に坐っています。
そのため、彼らの円坐では、時間や生死を超えた「情熱身体」や「他の情熱存在」との感応や直観的連絡が成立し、この世での複雑で不思議な人生が展開していきます。
有無ノ一坐の円坐舞台が、ミーティングや企画段階に時間を費やさず、直観に即応する形で次々に実行されているのも以上の理由によります。
こうして、円坐で出会い、かかわりあいの情熱が無期限に継続する中で彼此の関を越えた門戸大輔さんや、昨年急逝された香川の臼杵英樹さんは、今後の有無ノ一坐の円坐のすべてに臨在する現実の仲間としてつきあいが続きます。
現在67歳の僕が「老後」や死の不安をまったく感じていないのは、僕がやがて粘土のような冷たく硬い感触の「死体になった」あとも、僕の存在と情熱をはっきりと感じてかかわりあい、相仕合ってくれる仲間たちが、まだ生前なのにすでに僕のそばにいて、一緒に旅をしているからです。
円坐で相仕合う者同士は、「冷たく固い粘土の死体になり、焼かれて灰になっても」お互いを見失うことはありません。
門戸大輔さんや臼杵英樹さんは、今後の円坐を通じて我々とのかかわりあいがさらに深く継続するため、決して過去の出来事にはならず、むしろ、おふたりに毎回新しく出会うことになります。
我々は、これからの円坐で他者との間にあらわれる門戸さんや臼杵さんと、もっともっと深くかかわりあっていくのですから。
この点で僕は、「過去」という概念に基づいて「喪失感やトラウマを治療する」という物語を作り出す心理学的なあらゆる技法に対して「退屈」と「つまらなさ」を感じます。
「亡くなった」門戸さんは、自分の葬儀の進行を事前に自分自身でプログラムしていました。
葬儀の前半はキリスト教の牧師さんで、みんなで賛美歌を歌い、後半は浄土真宗のお坊さんで、みんなで南無阿弥陀仏を称えました。
おふたりとも門戸さんが深くかかわりあった方なので、宗派を超えた葬儀に協力してくださり、門戸さんへの個人的な思いを誠実に吐露されていました。
その雰囲気を思い出すと今でも幸せな気分になる「門戸大輔の空位相の御葬儀舞台」の時間は、あっという間に過ぎ去り、御出棺となって、みんなで門戸さんのお棺を持ち上げ、雨に濡れながら霊柩車に乗せました。
門戸さんの御遺体を乗せた霊柩車が斎場に向かって走り去ってゆくのを見送りながら、我々は不思議な満足感を感じていました。
門戸さんがこの葬儀の出来栄えに満足して笑っているのです。
口承即興円坐影舞未二観 有無ノ一坐 橋本久仁彦
※ 東京での門戸さんの展覧会
門戸さんの言葉を不滅の友情を込めてここに掲げ、門戸さんとともに坐る有無ノ一坐の5月の円坐舞台ラインナップを宣言します。
☆☆
「言葉を真剣に交わす限りどのような条件下でも、円坐は成り立つ。」
「ちゃんと会っているときは、生きていますね。」
「誰かに会うと、旅どころか、冒険がその地点からはじまりますよね。相聞茶堂を楽しみにしています。」
「死んでもまた会います。」
☆☆
<有無ノ一坐2026年5月円坐舞台ラインナップ>
① 5月3日(日)~7日(木)鹿児島県串木野市
<薩摩串木野ふるさと円坐街道>
※二回目の串木野、知覧から新田神社、猫御崎でまた猫と影舞を。
② 5月8日(金)22日(金)大阪市西区千代崎
<第24期影舞山月記(鬼)>
※影舞×影舞=円坐?
③ 5月10日(日)奈良県吉野郡
<第7回円坐影舞山月記~奈良吉野八景旅>
※茶堂に人生を導かれている人が未ニ関稽古に来た!奈良のご自宅を訪ねる。
④ 5月12日(火)福岡県福津市津屋崎
<暮らしの問屋 (株)畦道円坐>
※新加入の社員2名頼もしき
⑤ 5月13日(水)福岡県福津市渡
<古橋家円坐>
※ご夫婦円坐慶賀参上
⑥ 5月13日(水)長野県安曇野・池田町・佐久
<信濃路 行脚円坐>
※長野県安曇野や池田町の友人、もし時間あれば佐久のかみちゃんにも会いに行脚し、一日がまるっと円坐になる旅
⑦ 5月15日(金)福岡県糟屋郡篠栗町
<フリースクール山ねこ影舞稽古会“春ノ雪”>
※あーちゃんが桜並木に雪が降りかかってる写真を送ってくれた
⑧ 5月17日(日)福岡県博多区「ヒューマナイズ・オフィス」
<第19回はかた円坐>
※じゅんちゃん亀ちゃんに会いにゆく
⑨ 5月18日(月)大阪市西区千代崎スタジオ
<シュタイナーと音楽と円坐>
※シュタイナーはオーストリアの縁坐舞台おじさん
⑨ 5月20日(水)21日(木)北海道札幌市
<第2回札幌縁坐舞台>
※なぜか野嶋さんが懐かしい
⑪ 5月23日(土)大阪市西区千代崎スタジオ
<第3回未二の関・未二関稽古>
※未ニの関に来た関さん!生き様にご縁あり過ぎ
⑫ 5月24日(日)東大阪市石切町
<生駒石切400日間円坐>
※400日だけど一日参加もありだよ!
⑬ 5月27日(水)28日(木)徳島県阿南市新野
<第2回新野円鏡円坐>
※徳島との新たなご縁、新野(あらたの)だけに。
⑭ 5月28日(木)高槻市芥川
<第50回ふるさと相聞茶堂>
※故門戸さんに会いに来る人々
⑮ 5月31日(日)愛知県西尾市幡豆町
<おとなの森のようちえん・幡豆円坐>
※参加費ショートならベベファンドで!


