第2回 徳島阿南・新野(あらたの)円鏡円坐
春の花々が咲き乱れる北海道の「第二回札幌円坐舞台」で、人間関係のさまざまな場面で用いられている「ファシリテーション」と円坐について考えました。
と、のんびりした書き出しでしたが、今朝の読売新聞の一面トップ五段抜きの記事を見て気持ちが変わりました。
5月25日付の読売新聞朝刊は、「多死社会『無縁』の最期」という大きな見出しに続いて、「人口減と少子高齢化で、これまで当たり前だった日常生活の持続性が危ぶまれ、国力低下の危機に直面している。」という文章で始まる記事を掲載しています。
マスコミがこのような社会のとらえ方を拡散し、持続的に多くの人々に影響を与えることで、我々はどのような人間関係の世界に、どのような人生態度に向かうように、暗々裏に「ファシリテーション」されているのでしょうか。
有無ノ一坐の坐長として、僕が円坐舞台を実践しているもっとも大きな理由は、以下の三点にまとめられます。
① 一切の人工的な人間関係技巧を手放すことになる「人間存在への実存的敬意」を知覚できる地点まで上昇し、直接的な人間性と実存性だけでかかわりあうと、確実に他者との生涯途絶えることのない情熱的な絆が生まれるということ。
② 現代の世界状況を生きる我々が「他者」や「死者」との目に見えないかかわりあいを具体的に知覚し、意識的に体験し、概念的に認識するためには、「生者である他者と全面的にかかわりあう情熱」が必要であるということ。
③「他者」との情熱的なかかわりあいから生まれた「存在の絆」は、死の関所を越えてさらに強く、深く発展してゆくという事実の認識。
僕は自分の職業経験から、様々な人間関係の現場で用いられるようになった「構成的ファシリテーション」という対人関係技術は、事前に想定された利益と利害にもとづく目的に向かって、効率的、経済的に出来事を編集する技巧のことであると理解しています。
ファシリテーター自身がとらわれてしまっている功利的な人生観に基づいて実施される各種の即物的ワークや、物質的心理学の影響下で、我々は人間本来の自由と情熱から距離を取って観察的、客観的に他者を経験するように促進されています。
特定の相手との「聖域」だった「かかわりあい」を、お金を支払って専門家に譲渡し、効率的で安全な人間関係や生き方に導いてもらうことに慣れた我々は、他者との真剣な、予測不能な関係を避けるようになりました。
もし、安心安全な「人間関係」を手に入れるための様々な「技巧」を打ち捨てて、生身で真剣に他者とかかわりあいになると、心身と人生と生死を一致させて他者と向き合わざるを得なくなる状況が生まれます。
その状況とは端的に、世界と自分を切り離して孤独な感覚を生み出していた小さくて狭い個的自我が失われて、他者と100パーセント相仕合う領域に入るということですが、我々はその時に生じる自我消滅の「恐怖の感覚」を大変嫌がっています。
その恐怖感を感じないように、代わりになる一時的な人工知能的関係性を「販売」している人間関係業者をフォローし、知的で部分的で安全な、コントロールされた対人関係を作る生き方を学びます。
その結果、我々は人生の出来事に対して受動的になり、効率的で経済的な他者へのかかわり方が社会の常識であると考え、平均的で表面的な自我意識の在り方に波長を合わせていきます。
我々が嫌がっている「小さな自我が消滅する恐怖感」は、特定の他者と本気で愛しあう態度や、信頼の絆を結んで真剣に生きあう仲間の態度、そして命を預け合う仕事上の対峙と仕合いの態度としてこの世に現れる我々の霊魂の動きを、小さくて狭い「自分」という概念構造物に閉じ込めて、「パンドラの箱」のふたを必死で抑えている感触から生まれています。
パンドラの箱に、他人との命がけのかかわりあいや、「嫌な」情動を全部入れて密閉し、意識から切り離してしまう我々個々の人生態度が、現代に特徴的な社会状況を作り出しています。
この社会状況は、「わずらわしさ」や「重さ」や「恐れ」を回避して、効率的に、恐れのない、重くない、安全で楽しい人間関係を選ぶことが理性的な生き方だ、という思想的ファシリテーションによって維持され、促進されています。
自分以外の「もうひとりの人間」である他者と、真剣なかかわりあいに入る最初の段階で生じる「わずらわしさ」「重さ」「恐れ」は、小さな自我の箱に閉じこもった霊魂に属する大切な感触です。
我々が、心理的手術であるさまざまな技巧や技術を受け入れて「重さ」や「恐れ」を切り離すと、人間としての腹の坐った全体的な存在力は失われます。
こうして、我々人間が本来備えていた生身の、矛盾をすべて含んでしまうほど自然だった人間関係は、物質的技巧の対象となり、加工され、流通経済に従うビジネスモデルになります。
生成AIによって我々の願望通りに瞬時に加工される人間関係を提供し、完全な自動システムとして機能する「新しい人間関係」を売り込む業者や、流行りの「技巧的コミュニケーション」を教える対人関係の専門家は、人間の霊魂本来の「命にかかわりあう態度」を搾取し、パンドラの箱に封じ込めたままにする物質主義的世界進行の一部を担当していると言えます。
我々が「円坐」と名乗っている人間同士のかかわりあいの空間の中では、人々に「技巧」が使用されることはなく、どこへ展開するかまったく未知な球体の時間の中で、我々ひとり一人の存在の強度が上昇し、人間性の「輪郭」が鮮明になっていきます。
札幌市西区の野嶋成美さんは、「円坐は手すりのない山登りのようです。」とおっしゃいました。
「円坐は手すりのない山登り」とは、高度が上がるにつれて我々の表面的な自意識が消失し、直接的、生命的なかかわりあいの風土があらわれ、強い意識性が山頂から吹き込み、他者や世界への情熱そのものである霊魂存在としての「わたし」が立ち上がってくる「円坐という手すりのない山登り」のことです。
下段に掲載した「第二回徳島・阿南新野(あらたの)円鏡円坐」を主催するチャーミーこと高場理恵さんの案内文は、「怒りの爆発」が言葉の勢いになって読み手に伝わる文章になっています。
彼女が言う「人生で5本の指に入るほどの怒り」にふれた人は、彼女に対してどんな態度をとるのでしょうか?
ファシリテーターはどんな態度をみせるでしょう。
「コーチング」や「セラピー」「ヒーリング」などを学んだ人たちはどんな風にかかわるのでしょう。
「NVC(ノン・バイオレンス・コミュニケーション)」を「身に付けた」方々は、この女性の前に出た時にどんな言葉を発するのでしょうか。
☆
我々は各地で立ち上がる個性的な円坐を通して、現代人がその間に立って選択を迫られている二つの人生の領域を確認しています。
ひとつは、「生成AIやファシリテーションをはじめとする物質科学的なコミュニケーションの技巧がもたらす人間関係の知性化、平均化、機械化と、その結果としての人間の意識性と実存性の衰弱減退」
もうひとつは、「唯一無二の個性同士の生命的で直接的なかかわりあいと、その結果としての人間の意識性と実存性の深化発展」です。
たとえば、もし僕が「町おこしファシリテーター」というビジネスモデルを実践しているなら、「新野円鏡円坐」のご案内の文章に現れているのは、「徳島県の田舎に住むひとりの女性の、地域の人間関係をきっかけとして生じた個人的な怒り」であると判断し、まず彼女にていねいに共感の思いを伝え、肯定的感情を表明してコミュニケーションの「通路を開き」、各種のコミュニティ・ワークや心理テクニックによって彼女の怒りのエネルギーをコントロールし、「地域社会との不調和」が生じたり、現代社会に適応した人々が忌避する「人間の自由と尊厳の戦い」に拡大発展しないように対処することを目指すかもしれません。
セラピスト・ビジネスとしては、「個人的な怒り」の原因として、彼女を本人の成育歴で囲い込み、ユングやフロイトその他無数の心理学理論を断片的、暗示的に語り、幼少期のトラウマが人生に影響して重大な障害になっていると信じさせ、傾聴技法によってまるで彼女が自分でそう望んだかのように「傷ついた幼い子供と未熟な親のイメージ」の中に幽閉し、自分や親を「許して」「抱きしめて」「愛する」ためのワークや瞑想によって「癒し」を与え、そのかわりに金銭を請求するかもしれません。
上記のようなファシリテーターやセラピストとしての僕の行動は、すべて既成の過去の理論や情報を使用しているので、生成AIはこのプロセスを予測することができます。
我々が「心の中の傷ついた幼い子供が欲しがっている」と思い込まされている「似せ物のかかわりあいや見せかけの愛情」を、AIはすみやかに文章や画像や図解や音楽として作り出し、電気信号を変換して画面上に提示することができます。
読売新聞の記事をきっかけに展望した、以上のような日本の社会や世界の人類の生存状況の中で、我々円坐守人は、円坐でかかわりあいになる方々や、我々の友人であるファシリテーターやセラピスト、ヒーラーや瞑想家の、人間に対する「職業的行為」の本当の動機と生き様に関心を持っています。
流行のコミュニケーション技法や心理学理論や生成AIに対しては、現代社会を考える資料としての二次的な関心を持っています。
円坐舞台の展開において我々円坐守人が日本の各地で実践し、やがて世界各地での実践になっていくであろう「人間の態度」とは、他者に直接会いに行き、目と目を見つめあい、所作と所作を交わし合い、互いの指先をふれあわせて生死を超える影を舞い、ひとりの平凡で小さな個人として末永く、無限に大きく相仕合うこと、まったく異なる人間同士が心の底から愛仕合うことです。
口承即興円坐影舞未二観 有無ノ一坐 橋本久仁彦
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では、徳島県阿南市で開催される新野円鏡円坐のご案内文を以下に掲げます。
つい数ヶ月前のこと。 人生で5本の指に入るほどの怒りを爆発させた。
それはもう、ティファールよりも早く湯がわいたのではなかろうか。
アナタは憤りを感じたんだね〜と言われても、そんなもんじゃないのだこの怒りは。
聴きあうということを13年間やってきたが、 そんなものふっ飛ばすくらいの勢いだ。
過去を思い返してみても こんなにも自分以外の他人の事で怒ったことはない。
何にこんなに反応したのかを掘ってみると、綺麗な上澄みのように見せているものの奥深くに本当はドロドロしたものがあるのに、上っ面で隠しているのが透けてみえてそれが吐き気がするほど嫌だったから。
私の「嫌だ」が相手に本当に伝わったかはわからない。でもそんなことはどうでもよくて、どんなに汚くても醜くても、その感情をありのままにさらけ出して輪郭としてハッキリみせてくれる人と私は繋がっていたいんだと自分自身の事が良くわかった出来事だった。
新野円鏡円坐、2回目の開催となります。モコモコ着込んだ重たいものを脱いで真っ裸になりたい方、ぜひご一緒しましょう。何も隠さず私も真っ裸で座ります。
高場理恵(チャーミー)
「橋本さんが怒る理由を知りたいのでまた来ても良いですか?」かつて父にこう言った人がいました。
この言葉の違和感を、当時の私はわかっていませんでした。真面目に相手と向き合おうとしている、寄り添って、相手の感情を理解しようとする態度だと思っていたのです。いま思うと非常な勘違いをしていました。心理学や対話の手法を学びすぎるとこの違和感がわからなくなるのだろうと思います。(当時は存在しませんでしたが)AIのようだとも思います。
本人と感情とを切り離し、感情はコントロールできマネジメントできるものである、という押さえがあるとこのセリフに違和感がなくなります。
感情をコントロールする人は他人をコントロールする人でもあります。
心理学や対話法と人付き合いは一緒くたにされがちですが本来は全く異なるものです。
心理学や対話法は現場から切り離された知識の集積にすぎず、人付き合いは現場そのものです。
心理学や対話法は人間性を素通りし人間を利己的・生産的に生きるように管理するためのメソッドという側面もあるのに、便利な側面だけを見てしまっている現況があります。
心理学や対話法を人付き合いの現場より先立たせてはいけません。
現場よりも心理学や対話法を大事にしてしまうと、目の前の他者を見失いお互いに孤立した関係性を生み出すことになってしまいます。
円坐を各地で置きながら、こういった状況をいかに打破できるのか引き続き考え取り組んでいきたいと思っています。
有無ノ一坐 橋本仁美








第2回 徳島阿南・新野(あらたの)円鏡円坐
日 程 2026年5月27日(水)・28日(木)
時 間 各日10時半〜16時頃まで
会 場 徳島県阿南市新野町(詳細はお申し込み後にお伝えします)
守 人 橋本久仁彦・橋本仁美
参加費 各日一万円
主 催 有無ノ一坐
問合せ hitomi.hashimoto918@gmail.com(橋本仁美)まで


