第2幕 逢坂・能勢の円坐影舞
有無ノ一坐 橋本仁美です。
大阪能勢での円坐、第2幕です。
前回の円坐では偶然に父と弟も時間がとれ
能勢にいくことになり父と坂本厚子さん(あっちゃん)が深く知り合うこととなりました。
父はあっちゃんとまた円坐がしたい!と言っていて、ある日のげんくん(あっちゃんの息子さん)のドラムレッスンのときに、少し時間がほしいということで、あっちゃんと影舞をしました。
あっちゃんは、語り口はとてもやわらかくやさしいけれど影舞となるとどっしりとしています。
影舞は本人が絶対に気づけない本人を舞台上にあらわします。
舞台には影舞をする相手が自分に向かってきていて、
自分はその相手と関わり合いに必死なので、自分がどうだったかをあとで思い出すことができません。
(思い出すことができるなら、それはまだ相手と自分を観察できるくらいの距離をとっていて相手と関わり合えてはいません)
相手との関わり合いに必死で、到底思い出すことができない自分こそがほんもの自分であり、他人が知っていて手応えのある私なのです。
ほんものの自分は他者と関わり合っているなかに現れるので私が所有することができません。
だから、いくら「自分で自覚できる自分」や無意識の自分の振る舞いを捉えて矯正しても、意味がないのです。
そんなことをしてたら自己満足のナルシストになり他人に自分の思い通りの自分を受け取らせようと強引になるばかりで、そうなってしまうと誠実な他者は私から去り、自分が望む自分があるだけで、自分が望むことしか言わない他人に囲まれ虚しさがつのります。
話は変わりますが
先日、私が勉強にいっているジャズのクラスで発表会LIVEがあり、かっこいいライブハウスで演奏するので、げんくん、あっちゃんに観てもらいたいのと私の先生を紹介したいのとでお誘いしたらご家族で来てくださいました。
そしてげんくんは、会場に来るなり「僕ここでやるん?」とあっちゃんに聞いたそうです。
想像の上を行き常に最先端を走るげんくん。
「まじか」と思いつつ私もその言葉を聞いてしまったので、その言葉をなかったことにはできず、必死でげんくんを追いかけてついていくしかありません。
げんくんは共同幻想をもちません。
共同幻想については、第一回目の案内文に詳しく書いたのでよかったらご覧ください。
げんくんは自分という幻想も持っていないため、そもそも「自分を捉えて修正する」ということをしません。
だから目の前のことにすぐ反応でき、「自分(という幻想)がこの場所にふさわしい人間か」とは考えずに、「僕ここでやるん?」と言えるし、自分幻想を通さずに直に人と付き合うことができるのです。
自分は幻想ですが、他者は確実に存在しています。
存在している他者よりも幻想の自分を大切にするのが現代です。
死んだら消えてしまう幻と生きたくはありません。引き続き他者としっかり関わって参ります。
有無ノ一坐 橋本仁美
・・・
「第二幕 逢坂・能勢円坐影舞」開催に寄せて。
(有無ノ一坐 坐長 橋本久仁彦より)
我々のこの世界は、二つの相反する力が衝突と融合を繰り返してできる渦のようなエネルギーによって進行しています。
光は、プラスイオンとマイナスイオンが真っ直ぐに衝突することによって生まれる電磁波です。
光合成をして人間や動物の生命を支える植物の体内には、日光の届かない冷たい夜の世界と、光に照らされて温かい昼の世界の、二つの世界の衝突と融合が存在しています。
物質的肉体としての人間は、生まれてから30年ほどで硬化衰滅に転じ、44歳頃には急激に代謝能力が低下、以後は死と消滅に向かって進行します。
人生経験とともに拡大し、深まり続ける我々の個我意識は、常に物質的肉体の硬化衰滅の力と衝突し、対峙し、融合して肉体生活を構成しています。
円坐で生じるかかわりあいが、死者を含む「他者」との「生死や時間を超えた関係性」にまで発展するとき、それは円坐守人の個人的な能力によってそうなるのではありません。
老化して硬化衰滅する肉体に埋没し、死を恐れて縮小していた自己イメージが、他者との「精神的衝突」である深いかかわりあいによって崩壊し、新しく実存的に存在し始める「カルチャーショック(ある坐衆の言葉)」を通過するからです。
我々が「円影未二の関所」と呼ぶこの「精神的衝突のカルチャーショック」を通り抜けてゆくことが、国や民族、性別や個々の主義主張を超えた「生死や時間に縛られない人間同士のかかわりあい」の始まりになります。
そして、人間についての非物質的な新しい事実関係の認識によって、我々の日常生活の深層に、生死を貫いて継続する精神的な、目には見えない身体同士のかかわりあいが存在していることが理解できるようになります。
それは、愛と自由と信頼によって永続する人間同士のかかわりあいが、現代の世界にも本当に存在していることを知らせる「新しい報(しら)せ」であり「実存からのニュース」です。
この新しい報せ、実存からのニュースは、抽象的な死んだ概念ではなく、我々の生身のかかわりあいの中に「実際に生きている精神的な身体の運動である」と表現したいと思います。
「実際に生きている実存からの報せ」は、「目には見えない精神的な身体同士のかかわりあい」なので、肉体に飲み込まれて鈍重になっている一人ひとりの精神的身体に直接届きます。
「この人生を越えて永続する愛と自由と信頼のかかわりあいが存在する」という実存からのニュースを知ると、なんとしてもその位相にまで再び上昇したいという、人間の本能的な情熱に火が灯ります。
それは、「必ず死ぬ人間」として定められた我々人類が、歴史の始まりから求め続けてきた本質的な欲求であり願いであると言えます。
この欲求と情熱を生きることが、「何かを知ろうとする人間」「自分を超えた不変の存在を知ろうとする人間」の具体的な姿であり、その姿は世界の芸術や芸能が描き続けている人間のドラマの最高の目的であり続けています。
こうして、現代社会を生きる我々の多くが無意識的に受け入れ、同時に深いところでは反発を感じている日常生活の平均的、集合的な意識状態が、揺さぶられ、活性化し、覚醒します。
円坐舞台とは、「我々が人間であろうとするときに生じる」日常生活の中の実存的なドラマの舞台です。
「人間であろうとするときに生じる実存的なドラマ」とは、地上に存在するふたつの対立原理、死と生、物質と生命、機械と精神が衝突し続ける絶え間ない「対峙と仕合いのプロセス」のことです。
人間であろうとする対峙と仕合いの人生ドラマは、意識的な日常生活と無意識的な未知の領域の生活のはざまで常に生まれ続けています。
円坐守人は、このドラマが生まれ続けている「はざまの領域」に、「円坐」「影舞」「未二観」という、対立原理を統合する芸能意識によって焦点を当てています。
現在、我々がその一部であるこの世界と人類の行動様式は、「人工的で操作的な他者とのかかわりあいを拡大する」方向に向かって整えられているようです。
そのため、全身全霊の愛や信頼や友情と、その結果としての生死を超えて永続する精神的なかかわりあいのリアリティが、我々の現実生活から失われつつあります。
2009年に亡くなったイギリスの作家J.G.バラードは、すでに以下のような人間のかかわりあいの姿を予告しています。
「我々の日中の行動は、家庭生活のあらゆる場面でひとつ残らず端末に録画される。夜になれば椅子に座ってゆっくりとくつろぎ、AIが編集したラッシュ(映像素材)に目を通す。
AIはフィルターを通して現実よりもきれいに撮影された、もっともいい角度の顔や楽しそうな会話やいい表情だけをピックアップし、編集して一日をハイライトで再現する。
人間同士は、オンラインのモニター画面以外では会うことがなくなっていく。」
「第二幕 逢坂・能勢円坐影舞」が開催される大阪府豊能郡能勢町の「能勢」という地名は、「勢いを能(よ)くする」と読めます。
勢いとは「息合い」「行き合い」「生き合い」を源とする言葉ですから、「能勢」という言葉に、円坐の生きた人間とのやりとりの中で命を与えれば、「能く息をし合い」「能く行き合い」「能く生き合う」という意識的生命の名乗りを直接体験することができます。
この体験は、意識的領域に浮上し、あるいは降下して来る「特定の空間や土地」に宿る個性的な意識や生命との出会いの始まりになります。
僕は、自分の寿命が尽きるまでの間に、可能な限り直接皆様と語り合い、生き合いたいと思っています。
そして何よりも、自己中心の人工物としての「わたし」しか知らなかった僕の精神を、未二の関を越えて「本当の他者」がいる世界に連れ出してくれた「終の円坐衆」に最期まで添い遂げ、一緒に未知の世界への大冒険を「生き合っていく」実存の旅を、心から楽しみに思っています。
改めまして、この世界のこの状況と、たった一度きりのこの人生を、どうぞご一緒いたしましょう。
口承即興円影未二 有無ノ一坐 橋本久仁彦





第2幕 逢坂・能勢の円坐影舞
日 時 2026年7月11日(土)11:00〜17:00
会 場 大阪府能勢町(お申込み頂いた方に詳細をご案内します)
参加費 1万円
内 容 円坐・影舞
(周辺にお店がないため昼食を各自ご持参ください)
守 人 橋本久仁彦・橋本仁美(有無ノ一坐)
HP:https://umunoichiza.link/
申 込 hitomi.hashimoto918@gmail.com(橋本)まで
主 催 有無ノ一坐
円坐(えんざ)とは
知人他人同士かかわらず数名〜10名前後で集まり、数時間〜ときには数日間かけて過ごす語り合いの場です。各自の気持ちや主体性を尊重した聞きっぱなし言いっ放しを志向する対話の場とは異なり、時間いっぱい、やりとりの積み重ねで起こってくる関係性に基づいて、じっくりと丁寧に、しかし制限を設けず自由に関わり合いを進めていきます。
簡単にいえば「なにを話してもどう過ごしてもまったくかまわない自由な場だが、自分の振る舞いを見て聞いている他人が一緒に座っており、彼らもまた同じく自由であるためどう反応されるかはわからないよ」という場です。
その意味では日常に非常に近いですが、日常と違うのは、日々の流れに慌ただしく流されることなく時間をかけて自分自身の振る舞いをじっくり考えながら他者と関わり合えること、そしてそのやりとりを丁寧に追いかける守人という存在がいることです。
人付き合いには様々な「出会いかた」があります。情報をゲットしあう会い方、表面だけ合わせた楽で無難な会い方、お互いのエネルギーを吸いあう会い方。日常の出会い方は、利害関係に基づくものがとても多いです。
円坐ではときには沈黙が何分、何十分と続いたりすることもあるので不思議な居心地になることもあるかとは思いますが、沈黙も含めてまるごとで丁寧にお互いがやりとりしていき、唯一無二の未知の関係を深めていくことができます。
友達とお茶にいったり同僚と飲みに行って途中で疲れたり時間を持て余すときは、相手の表面しかさわれていないときです。ひとたび相手に踏み込んで関わっていけば、そのときどきのあるべき関係性の“ドレスコード”を超えていくことにはなるのでヒヤヒヤするかもしれませんが、その少しの勇気と引き換えに何日あっても足りないほど他者に対して驚くほどの関心が湧き出てきます。相手に踏み込んだ関わりあいがはじまると、他人が自分事になり、他人が自分の人生に入ってきます。
個人主義が主流になった現代、他者と関わった際に自分が揺らされ自分が保てなくなることを恐れるあまり関わりを避けるようになり、人は弱くなりました。尽きることなくエネルギーが湧き出てくるのは他人に向き合ったときです。そして最も幸せなのは他者に向かって全力で生きることではないでしょうか。
影舞(かげまい)とは
2人の人が互いに指を触れ合わせるところから始まる即興の舞台です。技術や経験は必要がなく老弱男女どのような方でも行うことができます。互いの指先を押し付けもせず離れもせずちょうど“触れ合わせている”ときに、お互いの心の機微を指先から感じとることができ、言葉のやりとりよりも俊敏に繊細かつ直感的にやりとりすることができます。時と場合によって円坐の前後に影舞を織り交ぜながら進めると、関係性のなかに起きている事実を捉えやすくなり、さらに互いにブレずに忖度のないやりとりを行うことができるようになります。また、影舞は舞台芸能ですが演技をおこなわず日本庭園の石庭のような存在感とやりとりだけの舞であるため、観客が自分自身の景色を映しやすくなる舞台です。


