7月海の円坐影舞山月記のご案内(第9回・第10回)
ここ最近、義母と未ニ観をしたあと、影舞の稽古を始めました。
事の発端は「最近ね、物忘れがひどいの。なんかいい手立てはない?」と、何度も言うようになり、二年前から毎週未ニ観をしてきましたが一念発起し影舞の稽古を始めました。
未ニ観は坐ってる時にすぐ始めるのでスムーズなんですが・・
影舞は、仏さんのお部屋に移動する際、廊下を2、3歩歩くと「何しに行くの?」「どこ行くんだっけ??」と、廊下の途中で、毎回どこかに行ってしまい、仏間から呼ぶと「あれ!ここにいたの?わっ!びっくりした!」と毎回驚かれます(笑)
昨日は藤山一郎さんの「青春日記」(古賀政男さん作曲)という古い曲をかけて影舞をしました。すると、言葉を使わないルールはすぐに忘れて、影舞しながら、どんどこどんと話かけてきます。
「昔、こんな歌謡曲でよく萩で盆踊りしたわ」
「戦争行って死んだおじさんの顔が出てきた」
「萩は空襲はなかったけど、戦争行って死んだ人大勢いたわ」
と。
初めて聞く話はがりでした。
未ニ観は同じシーンでも毎回違う流れで何度も新鮮に語られます。
影舞はより舞台性が増し、面影がはっきりとしみじみとあらわれます。
10年前梶原相聞円坐の案内文に寄せた新年のご挨拶の言葉を、七月の円坐影舞山月記宣言文としてここに掲げます。
〜 光景と景色・風景 そして「もののあわれ」 〜
わたしは、ありありと光景が目に浮かぶようだという「光景」について考えていました。
光景には場面(シーン)とストーリーがあって、
状況描写もしっかりしていて、
光景をつくり出す話しの仕組みには、
目の前の事のように印象づける働きがあるように思います。
景色というのは、
たとえ天国の景色であろうと、
鬼気迫る地獄の景色であろうと、
おそらく見ている者のまなざし(色)が、
ひろがる眺めに映り込んでいるから、そうなのだとおもいます。
いっぽう風景は、
仄灯に揺らぎ変化する「もの」の方から、
語られます。
風景は、
自分がつくり出すような、
はっきりとしたイメージではなく、
玉手箱(カプセル)のようなもので、
目にみえない「もの」が、
そのまま時空をこえ、
もういない場所にも、
いない人との間にも、
しみじみあらわれます。
時空を超えひとの消息を案じ歌う者の『言葉』を相聞歌といいますが、
時空を超え、ただの者となり
やがて・・
案じる相手や自分もいなくなり、
ただものの語る風景となるのは、
まさに、もののあわれです。
それはありのままの自分を表現できる空間ではなく、
ものが語りかけてくる新鮮な空間であると思います。
以上となります。
それではご縁をお待ちしております。
有無ノ一坐 松岡弘子
< 海の露(いのち) 円坐影舞山月記 >
第9回 7月5日(日) 10時〜17時
場 所 日本海(福井県のどこか)
参会費 1万円
守 人 橋本久仁彦 松岡弘子
申 込 enzabutai@bca.bai.ne.jp 橋本久仁彦まで
< 海の日 円坐影舞山月記 >
第10回 7月19日(日) ・20日(祝)
場 所 琵琶湖(彦根 長浜方面)
※ 定員となりました
守 人 橋本久仁彦 松岡弘子 橋本仁美
お問合せ enzabutai@bca.bai.ne.jp 橋本久仁彦まで
有無ノ一坐:https://umunoichiza.link/
写真は石切400日間円坐2026.6.28









