ト 円坐舞台 〜きくみるはなす連作口承即興縁坐舞台

一月四日の円坐舞台「子どもと円坐 円坐と子ども」に馳せ参じたきくみるはなす円坐舞台男若衆守人三羽烏見得を切るの図。
左から大阪のユウ(29歳)北海道のジュンキ(32歳)北九州のタカ(32歳)そして
お目付け役、関ヶ原古戦場円坐西軍総大将・広島のヒロ(?歳)お目見えの図。

<  ト 円坐舞台 〜きくみるはなす連作口承即興縁坐舞台  >

日程:2022年1月16日(日)・2月13日(日)

時間:10時〜17時

① 1月16日 「人間と人と円坐舞台」
② 2月13日「仏教と円坐舞台」
③ 次回 日程未定「ルドルフ・シュタイナーと円坐舞台」

場所:影舞山月記(鬼)稽古場 大阪市西区千代崎 2-20-8

会費:各回 八千円

守人:橋本久仁彦 松岡弘子

主催:有無ノ一坐

申込enzabutai@bca.bai.ne.jp 橋本久仁彦

1月16日日曜日より大阪千代崎の有無ノ一坐・影舞山月記(鬼)稽古場にて、有無ノ一坐の 「 ト 円坐舞台」 を開催いたします。毎回ひとつの「ことばの旗印」を掲げて円坐舞台を立ち上げる「きくみるはなす連作口承即興縁坐舞台」です。

「○○と(ト)円坐舞台」のような見出しで始まる連作の口承即興縁坐舞台。
もとより円坐舞台は特定のテーマを持たず、今ここにいる坐衆方自身がそのまま目的と成り合い、心も鳴りあって、互いの心境境涯を辿り合い響き合う具体的な様式を持った口承即興舞台です。

どんなに混沌として無秩序にみえる状態から始まった円坐舞台であっても、そこに円坐舞台の時空結界が成立し、守人による辿りと対峙、そして仕合があるならば、円坐舞台は異なる位相へ上昇し、他のどこにもない独創性と無垢な聖性を備えます。そのような円坐舞台で生まれた「坐衆の言葉」は、その円坐舞台のライブの現場にいなかった人々には伝達することが困難な精神の深層から生まれた言葉です。

同じ曲をCDで何回聴いても、ある時ある場所に集まった人々と行われた熱気のあるライブ公演のリアルな音楽体験になり代わることはできないのと似ています。円坐舞台で生じるこのような言葉は、通常の社会的な言葉のように「情報」として機能することを停止し、日常語とは異なる質感をもった言葉に変容しています。

それはその人がその時その場所にいる坐衆方だけに発言し、その時そこに臨在した坐衆方だけが受け取ることのできる「ことば」です。このようなことばを僕は以前 「約束の言語」 と呼んだことがあります。

人間と人間との深い関柄から生まれる言葉はそのふたりの間だけに通用する約束の言語です。愛しあい、信頼しあう人々から生まれる言語は単なる情報ではなく、互いに生涯対峙して真摯に生きようとする生き方そのものの証しとしての言語です。そのような言語は精神的な命を備えた一個の人格を代表することばであると言えます。

精神的な命を持つようになった「ことば」は、ひとりの人間と同じ精神的存在になっていますから、日常的な情報のように操作したり、脚色したりすると「失礼である」とか「敬意を欠く」といった事態を引き起こします。

たとえば宗教の経典のような言語はまさにそのような約束の言語によって出来ています。どの経典の言葉も真剣に耳を傾ける坐衆に精神的物理的に対面対坐して、聞き手の命の深層に向かって敢えて語られた「約束の言語」です。

ゆえに経典を「拝読する」と言い、ページに手を付ける前に深々とお辞儀をする時空間を立ち上げ、その上で、紙の上の言葉を通じて肉体を持たぬ語り手の、時空を超えた精神的訪問を受けます。

さて、僕にとりましては、坐衆方との未二観の8分間、15分間はそのような精神的訪問を受ける神聖な時空間として立ち上がっています。数時間、数日間、時には一週間以上に及ぶ円坐舞台も、坐衆方の生きた言語空間にお互いに参入し合う真剣な精神舞台です。

未二観辿者(てんじゃ)や円坐舞台守人における「聞く」、そして有無ノ一坐における「聞く」とは、坐衆方の面前に以上のような約束の言語がアラワレルための精神舞台を立ち上げる仕事のことであると言うことが出来ます。

有無ノ一坐の「 ト 円坐舞台」で旗印に掲げたいのは、日本各地で行われる円坐舞台の坐衆からアラワレ、生まれて来た現代に生きる人間の、真剣な対峙と仕合に耐えうる主体的な精神言語です。

単なる情報のやりとりを超えた、いわばこの世の常識を少しはみ出た彼岸的ライブコンサートでなければそれらの言葉や音楽は生き返りませんので、きくみるはなす円坐舞台というこの世とあの世の境に位置する口承即興舞台を立ち上げます。

1月16日の第一回目と2月13日の第二回目の有無ノ一坐の「 ト 円坐舞台」では、日本各地の円坐舞台に遺された坐衆のことばを辿らせていただき、その面影を舞うことから円坐舞台が始まります。

「・・・昨年のイブイブ円坐からの急展開でこの一年は大変お世話になりました。
まだまだ ひと( 人間 )の世の中ではよちよち歩きのような感じですが、ひと(他人)の中で過ごし、話をし、時には声を上げて笑ったりできるようになったのは、今まででは考えられなかった世界です。ここまで本当にありがとうございました。残りの人生、人間として終えていけることに、少しほっとしています」

「・・・帰りのバスの中で『私の人生に人が入ってきた』と言うことばが浮かんでいました。 ・・・これらは今年3月の縁切円坐、十六番稽古、蓼科、関ケ原、水俣で有無の一坐の皆さんはじめ、そこに集った方々との時間を体験したことによって醸成されたもの、本当にありがとうございます。
『私の人生に人が入ってきた』と言うことばは、もちろん無理やり入って来たと言うことではなく、『私の人生に初めて人が現れた』という感じの、驚きとともに喜ばしいものなのです。
死ぬまでに、(本当の)『人』と会う事ができて良かった。本当に本当にありがとうございます」

 以上の「遺されたことば」から、
「人間として終えていけること」
「私の人生に人が入ってきた」

を掲げさせていただき、第一回目の有無ノ一坐「 ト 円坐舞台」の旗印を
「人間と人と円坐舞台」
といたします。

続く2月13日の第二回目は以下の「遺されたことば」から旗印を拝受いたします。

「妙有真空円坐で・・・わたしの口を通って、次の言葉が出ました。
『このようにして人との間で向き合いながら、
 対峙し、生まれてくる言葉が宗教であって、
 お寺で説法される仏典仏教は宗教ではない。』

この言葉は、
私から出てきた言葉ではありますがわたしのものではありません。
出るべくしてあった、大河の一滴であった気がします。」

これは仏教寺院にご縁のある坐衆方の円坐から生まれた重大な表明です。じっくりと辿り、対峙し、仕合って「円」の中心に向かって耳を澄ませて参ります。

旗印は、
「生まれてくる言葉と仏教と円坐舞台」です。

ともに守人を務めます有無ノ一坐の松岡弘子が、第一回と第二回の「 ト 円坐舞台」に向けてご挨拶をしたためておりますものをここに掲げて皆様へのご案内とさせて頂きます。

有無ノ一坐 橋本久仁彦

写真:賀正影舞縁坐舞台 様の祭り 2022.1.5

「 ト 円坐舞台」~有無ノ一坐のきくみるはなす連作口承即興縁坐舞台に向けて。

生きる、生きてきた、生きたい、
と、よく言いますが、
同時に生かされてるのが人間です。

すべてのものは、
相依りあって在ります。

因縁や縁起を認識したり、
受け入れられているなら、

この自分というのは、
おかげ様で、
生かされている自分という、
唯一の居場所になりますが、

人生を椅子取りゲームの様に見立てて、
居場所の奪い合いをしている様を見て、
本当に悲しくなります。

子どもを持つ親にとっても同様です。

本当は認識する必要すら、
ないのかもしれませんが、

子どもというのは、
父母の意思によって生まれるのでも、
なく、
親の所有する持ち物でもありません。

深くて大きな、
たくさんのつながりが、
あるからこそ、
子どもが生まれて「来る」のであって、

どんな困難があろうと、
生かし生かされている、
関係に恵まれる有難さというか、
目に見えない繋がりがあっての、
親子であり、

仲間も同様です。

決して同調性で互いを薄く縛り、
はぶりあうものではありません。

自然というのか、
宇宙の不思議な力が働くように、

人間関係の奥には、
自然や宇宙と同様、
目に見えない力が働いています。

自分の人生にとっての大事な出会いは、
本当に相応しいタイミングで出会うと、
わたしはそんな気がすごいしています。

たとえ、
嫌な事が沢山あっても、です。
なぜかとても元気になります。

精神というのは、
個人に属するものではないと思います。

人と人の間にあってこそ、
そこから、宗教も生まれ、

それは決して因果関係でなく、
むしろ同時多発に起こることです。

言ってみれば、人と人の間にあってこそ、
時間を超え縁起の円時空となっています。

仏教の経典にはない、
と言っても過言ではないと、
と思いますし、
それは事実だと思います。

真理を手に入れたくて、
未知である自分をわかりたくて、

各所に人に出会いに行くのは、
握ったまま小さな瓶の口に手を入れて、
内容や意味の情報を取ろうとしていて、
本当に誰とも出会わないのだと思います。

わたしは、
特定の他者にとって、邪魔な存在である、
という己を知るたび、

毎回初めて、
近うして見難きは、
自分の姿なのだと知ります。

その分、
他者の姿が見えてくるというのか、
幻想から目が覚めて冴えてくるというのか、

自分の人生を生きてきた気になって、
おかげさまで生きて来たのも忘れてしまい、

恩義や感謝の素直な心も捨て、
がむしゃらに自分の力で生き、
薄い膜の様なものに同調しながら、
社会の価値観に合わせていくのが、
決して人生ではない、とつくづく思います。

自分の中の大事な人を亡き者にしてまで
一体何がしたいのか、全くわかりません。

わたしは、
そんな人と会い関わると、
とてもしんどくなります。

ところが、
円坐で縁坐舞台として、
対峙しふれあい相交流し仕会うと、
シンプルですが不思議と元気になります。

そこには恐らく仏教をはじめ、
あらゆる宗教の原初の本質が
人と人の間にあって、
目が覚めてくるからだと思います。

以前、後生の寺子屋という円坐を、
箕面の萱野邸で開催いたしました。

このたび、
「人間と人と円坐舞台」「仏教と円坐舞台」
というテーマで、
「 ト 円坐舞台 〜きくみるはなす連作口承即興縁坐舞台」を開催いたします。

次回以降は、千葉相聞円坐のご縁からの「遺されたことば」より
「ルドルフ・シュタイナーと円坐舞台」
の予定です。

円坐や縁坐影舞舞台を通じ、
シュタイナーの精神世界に、
果たしてふれたり、
ふれられるのでしょうか。

「芸能と円坐舞台」
「言葉と円坐舞台」
「陶芸と円坐舞台」

などそれぞれ日本各地の円坐坐衆方々から生まれ、「遺されたことば」を令和四年の道行き景色と心得て一坐一同辿って参りたいと思います。

それでは、
皆様のご縁を心よりお待ちしております。

有無ノ一坐 松岡弘子