円坐 死ぬほどのことじゃない<壱>

<概要>

開催日:2022年3月26日(土)10:00~17:00

場 所:静岡県浜松市森林公園森の家

参加費:¥8,000(参加費のみ)

当日の流れ(予定)
 10:00〜 受付
 10:15〜 円坐
 12:00〜 昼食(各自)
 12:40〜 円坐(場合によっては影舞)
 17:00 解散
※お昼は各自ご用意ください。
 現地でお弁当の手配も可能ですが予約が必要なので希望者は弁当希望の旨書き添えてください。
なお弁当料金は別払いとなります。(¥800前後を想定)

主催:橋本仁美、池上利也
お申し込み、問い合わせ:toshiyan.aqua☆gmail.com(☆マークを@に変えてご使用ください。)

ご挨拶

<橋本仁美>
池上利也さん(としやん)と、死ぬほどのことじゃないと題して3回円坐をひらきます。

としやんには8月の蓼科で声をかけました。
声をかけたのは以前石切で影舞をしたときに、
「このじゃじゃ馬が!」と吠えられたからです。
大手会社を勤め上げた、いつも紳士で優しいとしやんが、
その瞬間だけは、任侠映画に出てくるやくざみたいでした。

あとは、石切での円坐守人稽古会でも、円坐中に私がうざいちょっかいを出すと
やくざのとしやんがたまに出てきました。
いつも紳士で優しいとしやんも素敵ですが、
「このじゃじゃ馬が!」のとしやんが、私がいつも思い出すとしやんです。
あの瞬間を思い出すたびにビャッと伝わってきた気迫が蘇って元気がでます。
あれから、いつでもとしやんが私の中にいます。


ほんとうに人に会うっていうのはこういうことなんじゃないかなと思います。
人間同士向き合っても本音の手前に緩衝材やバッファーをかけてばっかりの世の中です。
そんな(感情的な?)自分を出せば人から受け入れられないかもしれない
その感情(?)に自分がふりまわされコントロールできないかもしれない
それで人を傷つけるかもしれない・・
そういう声を最近あちこちでよくききます。その先に手を出してしまう自分がいるかもしれない?


ほんとうにそうでしょうか。
そこまで自分は手に負えないのでしょうか。
ほんとうにそうならば、それは病気です。普通に暮らしていてはいけません。
でも、普通に暮らせています。もし仮に本当に手に負えない可能性があるのなら
そこまで踏まえてお互い丁寧に聞き合えば良いのです。


そんなわけで、私たちは人と出会うことを怖がらされすぎていると思います。
扱いきれない自分(?)を出すことを恐れる心境はわからないでもないですが、
そんな自分を出したところで…、死ぬほどのことではありません。
だって、そうはいっても円坐は言葉のやりとりだからです。
むしろ自分を出さずに死ぬことのほうが大問題です。
自分を生きずに死ぬことになるからです。


誤解を恐れずに言います。
誰かの言葉に傷ついた、傷つけられた、ということ。
ただ単に言葉を聞いただけで、実際に殴られてもいないのに
どうしてそんなふうに言えるのでしょう?


「自分」というのはコントロールできない、あるいはしなければいけない感情や癖などではなく、
心理学で唱えられる「誰かの影響によるなにかの特質や性格」とかでもありません。
「じゃじゃ馬が!」というのはまぎれもなくとしやんだし、
としやんに脈々と受け継がれてきた血筋であるし、
「じゃじゃ馬が!」のとしやんと一緒にいることは、
としやんの両親やご先祖様に挨拶することにもなるんじゃないかと思います。


死ぬまで、そして死んだあとも付き合うつもりで
やっていくのが、きっと人生を一番楽しむ方法です。
そんなご縁をご一緒しませんか?
お待ちしています。

<池上利也>
今回はじめて橋本仁美さんと全3回に渡る円坐を開く運びとなった。
自分にとって円坐とは何か?
彼女と沢山話す中で最初に思い浮かんできたのは「人と向き合う豊かさ…」とか綺麗事?
美辞麗句的な、あるいはそれに近いものばかり。


確かにそれはそれで正直な自分の中にある一端ではある。
しかしながら一方で自分の中に潜む何かがそうではないものを訴えようとする動きを潜在的に気配として感じていたのかも…
そして怖いものに蓋をするかのように見ないで来た自分がいたのかもしれない。
イベント公開直前、そんな疑念が持ち上がり案内文を書き換えている。

今更ながらそんな風に動いたのはこれまでの会話の中や、
円坐のイベントページのタイトル画を作成するやりとりの中、
自分自身が見ようとしてなかった部分を彼女がヒリヒリと暴いてくる感覚があり、
それが何だか自身が見てこなかった別の本質をついているようにさえ感じてきたからだ。

もしかしたら円坐で守人を務める時の怖さはいつも感じていたものの、
光の方ばかりを見ようとしてきた自分がいたのかもしれない。
ここにきて何だかそんな風に思えてきた。
(これは単に橋本仁美の術中にはまっただけなのか?)

彼女が先に書いた案内文を読んでも彼女が抱いていた恐れを自分は最初ピンと来ていなかった
(そもそも鈍いだけかもしれないが)
…それ以外にも会話の中で自分の中の謎の蓋をツンツンと刺激されてもどこか頑なに拒み続けていた自分がいたのかも、それが自分自身だと思い込んで。

3回のシリーズではもしかしたら自身が未だ見ていない真の闇?が新たに暴かれていくのかもしれない。
これまで気付かぬふりをしていただけで実際にはずっと潜んでいたものなのか。
それは自分一人では暴けないパンドラの箱みたいなものなのか?
でもここまで来たら「暴かれてなんぼのもんじゃ!、死ぬほどの事ではない」とタイトルに掛けて粋がってみるしかない!
公開直前に迫り今はそんな面持ちとなっている。
「円坐 死ぬほどのことじゃない 壱」は3月26日、浜松森の家で開催します。
どうぞよろしくお願いします。