冤罪と満場一致のパラドックス

思考はその人個人のものなのだろうか?
思考するのはいったい誰なのだろうか?

「わたし」は人やものや世界との関係で、
「思考」を感知しとらえて生じさせうる、
「精神」そのものなら、

既知の世界から未知の世界へ、
死に続けて生まれ変わるので、
生きることも死んでいくことも、
決して退屈しません。

ところが、

事実をなかったことにして、
現実を自己中心的に作れる人は、

「自分は思い込みが強いんです」

と本当には言えないと思います。

他者との間や周囲の関係性にも、
生きていないという気がします。

先日、有無ノ一坐の橋本仁美さんから、
「満場一致のパラドックス」の記事を、
紹介していただきました。

満場一致のパラドックスが起きるのは、

たぶん、好きか嫌いか、
役に立つか害を及ぼすか、
魅力的か反感を買うかみたいなスケールで、

出来事を捉えている時に、
起きやすいようにも思いました。

その出来事を捉えている主体の、
精神的な営みというのか、
思考の仕事そのものは無視され、
表面的に現実を仮設してしまう気がします。

決め付けたことをさらに思い込むことで、
決定的にしてしまうのかもわかりません。

思い込んだはずの「人」そのものは霧散し、
いつのまにか消えてしまうのだと思います。

本来思考というのは、
自分は、自分以外の、

空だったり、花だったり、本だったり、
他者だったり、世界だったり、宇宙なのに、

科学的?な人は実証できる事にすり替えて、ただ連想したことを問わないまま、
論理でつなげてしまう能力があり、

一瞬にして数人で、
冤罪や満場一致のパラドックスを、
引き起こせるのかもしれないです。

それとも、

もっと複雑なのかわかりませんが、
ふたりの間で、丁寧にふれあって、

どこに運ばれていくかわからないけれど、
確実にあるテルペンが思考である、

というような気がむしろするので、
未ニ観とか影舞したらいいのかも、
しれませんね。

ー2022.6.26 思考とシュタイナーと円坐舞台 より

さようならの向こう側

今朝は涼しい朝でした。

雨あがりの庭を歩くと、
サンダルやズボンの裾が濡れますが、

トマトやきゅうりの苗がビュンと伸び、
小さな赤い野いちごの実が色づいて、
普段の朝とはまったく違う驚きがあるので、
雨上がりは、狭い庭に出るのが楽しみです。

2年前の3月6日に、犬が亡くなりました。
浜松の円坐から戻った夜、次女も帰省して、
家族の顔を見て安心したのか、
翌朝未明に息子が添い寝する横で息をひきとりました。

死んでも顔が笑ってるみたいで、
普段とおなじソファに寝かせて、
ご飯を食べながら、話かけたり、
撫でたりしながらささやかな夜伽をしました。

3日目、
長女が奈良から駆けつけて、
母も来て、全員で庭に埋葬しました。

庭で走ったり寝転んだりしてたので、
土をからだに乗せて彼岸桜を植えました。

口ずさんでたさようならの向こう側が聞こえてくると、
あの日の突き抜ける真っ青な空が今でもひろがります。

ランの身体は土になり枝や葉は日に日に茂っています。
帰宅すると桜に「ただいま」と言うようになりました。

主治医の先生の勧めで生まれたての子犬と、
一緒に暮らすようになり長い年月が過ぎて、
おばちゃんになっても変わらず元気でした。

淡路島の海岸で有無の一坐の方々のまなざしのなか、
影舞をさせていただき、次女と写真を砂浜に埋めて、
砂を乗せ、石を積みました。

淡路島の空を元気に走りまわる姿が目に浮かぶのも、
不思議です。

この春から猫が二匹やって来ました。
ランと同じ9月生まれの姉妹猫です。
どこかランの面影を感じる風貌で親しみを覚えます。

昨夜は猫たちのそばで文字起しをしながら、
気がつくと夜が明け雨があがっていました。

サンダルを履いて庭に出ると、
草葉の水滴で足が濡れました。

ー2022.6.23 第3回 ふるさと相聞茶堂 より

言葉の生きがい

〜言葉の生きがい。その人のたどってきた人間としての道のりや世界像を言葉や表情が背負っていますから〜

この言葉は石牟礼道子さんの言葉です。

ずっと言葉の生きがいとは何なのだろうかと考えていました。
それは「辿り辿られる」事だと、わたしはいま考えます。

言葉を正確に辿り始めると、同時に、向こうから辿られ始めることになります。
円(縁)坐舞台上で丁寧に相手にふれあうと舞台を観る者は、
同時に、向こうから観られる者となり、
舞台を挟んで、みつめ合うことになります。

相手にふれあいその先へと丁寧に参りあうと人生が一気に展開し始め、
交差する地点があらはれます。

そこにあらはれる世界像というのは、言葉で表現することができないのですが、
たとえば神聖であったり荘厳であったりするのですが、決して人間離れしている世界でもなく、
人間も他の生きものもあらはれるような、山川草木悉皆在る世界のような気がします。

限定的な供養や経典戒律に縛られない世界です。
が、だからといって自分勝手に好きなようにすることと全く違います。

向こうからみつめている親の姿や仲間の姿を感じることができる人は、
おそらくその地点で、みつめあっているのだと思います。

先日有無ノ一坐は北海道旭川へ名残りのドサまわり縁坐舞台へ参りました。

影舞でお互いに丁寧にふれあう指先の向こうにあらはれる舞台空間は、
彼岸と此岸の交差する地点でもあり、
それは、この世の人たちへ向かって生きておられる
ご友人の言葉、気配、生き様、姿がいきいきと感じられる空間でもありました。

いま、天井の木がぱんと音が鳴りました。
旭川の縁坐舞台でもしきりに木の音が鳴っていました。
すると北海道の春蝉の鳴き声がまた思い出されます。

ー2022.6/29 相聞放談円坐より