舞台より日常のほうが幻想

池田音討ちの段が終わったあと、こんな文章を書きました。

『円坐ひとひろ〜池田音討ちの段
のとき、
見知った道や山の景色が目に入ってくるのに
入ってくるところが違った。
脳の裏っ側がこそばゆい。
目じゃないところで見ているようだった。
池田で一緒に働いた馴染みの方や、
一緒に遊んだことのある子
とも偶然会えたけど
会ってるのに会ってないような。
なんか不思議な会い方だった。
「死んだあとに会う会い方してるんちゃう?」
そんな話が出た。
円坐、影舞をすると、
居る場所と居る人が思い出みたいになる』

・・

円坐ひとひろはいままであちこちの日常の一角で
円坐・影舞をしてきましたが、その舞台は
眠りから目が醒めた瞬間の
まだ「私」が起きて居なくて世界の見え方が
固定されていないときと似ています。

しばらくすると「私」がPCのように起動して働きはじめるので、
聞けていた音も消え景色も見えなくなりますが、
影舞のはからいのな動きを観ている間だけは
「私」から離れて
目が醒めた瞬間のようにそのままの音と景色を
ダイレクトに受け取れます。

「私」は、本当はあなたのことがわからないのに、
あなたと会ったと思いこむために、
やりとりし切れていない部分を「私」の予想で埋めて
自分の中でつじつまを合わせて
あなたと会ったと錯覚させます。

だとしたら、舞台よりも日常のほうが幻想ですね。
この事実がとても面白いです。

舞台と日常を行き来しながら、
それぞれの思い出の場所から、思い思いに語り合いながら
五月山の春を感じつつ、一体どこにどう向かっていくかはわかりませんが
円坐ひとひろの舞台をみなさまと進めてゆきます。
どうぞ、ご参加をお待ちしています。

ー2023.2.27 円坐ひとひろ 〜 きくみるはなす五月山縁坐舞台の段 より

音を通して出会うこと

先日映画「BLUE GIANT」を観てきました。
ジャズの映画だけど、円坐と一緒でした。
セオリー通りのリズムを身につけるのがジャズなのではなく、
まず舞台を通して
音に自分の意思を乗せて、聴く人に届けていました。
音は言葉と一緒でした。

昨日、はじめてソロライブをしました。
いろんなジャンルの曲に合わせて17曲やりました。
こんな形でやったのははじめてで、どうなるんかと思いましたが、
気がついたら2時間経っていました。

ジャズやドラムのセオリーどおりにやろうとする自分の音が
あまりに演奏と合わないから、途中から捨てました。
誰にも習ったことのない我流の叩き方で鳴らし始めました。

すると、ジョン・コルトレーンが立ち上がってきました。
彼のソロには圧倒されました。
音を通して彼の精神が迫ってきました。
音を通して彼に出会いました。
今まで聞かなかったコルトレーンのジャズを聴き始めるようになりました。

人と人は、ほんとうに出会うと、人生が変わります。
人との出会いは本来それくらい強烈なものです。

他人の前にいるのに、
自分の中にある質問だけをすること。
すでに自分のなかで出ている答えを確認するために尋ねること。
それは自分を大事にすることではないし人と出会うことでもありません。
相手と出会うために相手を研究することでもなく
自分の思い通りに相手と関わるために情報収集をしているだけです。

自分を大事にすること、
人を大事にすることを
履き違えています。

ライブである以上、
不安定なものを見たい
安定したきれいな演奏ならCDで十分です、と
あるお客さんが言いました。

円坐もそのような場です。

ー2023.3.7 3月9日長崎円坐 より