円坐舞台の体験とは悲劇と幸福の両方であること。
今月より「円ノ坐芸入門」を月二回開催します。
「入門」とは簡単とかやさしいと言う意味ではなく、有無ノ一坐が探求している円ノ坐芸、
「きくみるはなす縁坐舞台」という芸道の門前に一度「立ってみる」あるいは「入ってみる」ということです。
「円ノ坐芸入門」では「きくみるはなす縁坐舞台」の性質について言葉と思考を立ち上げます。
ここでの言語化が精神的血肉を失わずに「きくみるはなす縁坐舞台」の
経験を深める方々にとっての「生きた手掛かり」になることを目指します。
一般に理論とは「既成の原理に従って筋道を通した考え」のことですが、
きくみるはなす縁坐舞台の本質は既成の原理に従いません。
縁坐舞台の「無原理の原理」について、僕の立ち位置からは以下のような思考の射程で接近します。
8分間や15分間の未二観の舞台(人生)空間全体を辿る私。
⇒てるぺんの塔を全方向(全集中ではなく)から辿る私。
⇒私を全方向から照らす空間生命の意識性への予感。
円坐に取り組むことは、実際的な思考活動=現場思考=舞台思考に取り組むことであり、
円坐の中から人生と世界を見通すことである。
感情と思考を分けずに体験すること、生きること。
既成の理論やルールや人の考えに従ってではなく、
現場に生起する「出来事」に従って判断すること。
円坐舞台の体験とは悲劇と幸福の両方であること。
目の前の「この事実」「この出来事」に対してどう対処するか、どう生きるかを守人は常に自問し続けること。
一つの理論や学問だけで世界や人間を判断することは傲慢不遜であること。
円坐にあらわれる出来事の根源を辿り合い、
不確かな要素をその都度、現場舞台に立ち返って解明することの重要性⇒「後詰めの円坐」
円坐の成立要件とは「全身と全霊で『てにをは』を辿ること」→「てにをはを辿る」とは何か。
ロジャーズの態度的三条件から空間的無条件への領域移行。
The way to do is to be.→ the way to do is to be all, or to be nothing.
縁坐舞台の本質は理論固定できないがその性質をことばで描写することはできる。
詩の言語、歌の言語⇒影舞言語、ヒトガタ言語。
⇒現に生きている人間を理論化、機械化できないのと同じ状況。
円坐は既成の目的や利害を維持補強するためには役立たない。
⇒円坐を開き、てにをはを辿り、全身全霊で舞台空間を生きると破壊と革新が起こる。
稽古の段階的指標。
影舞舞方⇒未二観辿者⇒円坐守人⇒縁坐舞台ヒトガタ・囃子方⇒縁坐舞台守人⇒円坐舞台守人
集団の中で主体的に動けることを目標とする人間像(19世紀~20世紀のモデル)
⇒空間全体を新しい「自分の身体」として感受する人間の出現。
⇒「世界空間としての自分」の誕生(21世紀以降現れるモデル)
円坐守人、影舞人として通り抜けるべき危険地帯。
⇒自分の内面に耽溺し、恍惚感、至福感、解放感などの「洗練された利己主義」に陥ること。
⇒個我が「自分」から抜け出し、外界や他者のもとに出向いて真剣に対峙し、仕合うこと(円坐)による「洗練された利己主義」の克服。
単なる観察や反省にとどまらず、外界に向かって「自分」から「出る」ことで「何か」を体験すること。
他者=自分以外の存在への集中・対峙・仕合によって自分の心魂の中に体験する自分以外の「何か」。
自分の内面だけで完結し、人生を通り過ぎさせるのではなく、
外界の中心に存在する精神領域に出合うこと。
自分の内面と外面を一つの大きな精神世界の二つの面として統合する円坐舞台の空間。
⇒現代のこの世界状況に生きる我々は外界に出ていかねばならない。
「他者」に会いに往かねばならない。
⇒世界を呼吸するため。この地球に生きるため。
世界や他者の本質が自分自身の個我の本質と等しいことを発見するため。
自分の内面を外的なものと対峙させ仕合うことで稽古を深める。
⇒内的世界と外的世界が本来ひとつであることの予感ないし発見。
⇒内的な理念や思考内容が心魂の前にはっきり現実として現れる舞台空間。
⇒手で物をつかむように徹底的に思考を把握する「てにをは辿り」。
「属」として多数が同じように成長する植物や動物と、
個我精神として一人で変革しメタモルフォーゼ(変態・反転)する人間の根本的な違い。
はるかなるメタモルフォーゼ、「この世の名残り 旅の一坐・オデッセイ(魂の遠征)円坐街道」の至上の歓び。
今月は兵庫県須磨一の谷、香川県屋島古戦場、香川県三豊こだわり市、ゴールデンウィークは第三次高知県四万十遠征へ。
懐かしい名残りの旅の一坐は、日本のふるさと円坐街道をオデッセイし、道行きを辿り続けて参ります。
よろしければ貴重なこの世の旅路をご一緒いたしましょう。
ー2023.4.8 「有無ノ一坐」4月の円坐舞台ラインナップ より