相手を知り更に相手が教えてくれる相手から見えてる自分を知るという事

円坐や影舞の良いところとして時、場所、場合を選ばずに出来るというのがありますが、じゃあ逆になぜ開催地を
何かのゆかりある場所でしたり大切な場所でするのか考えた事はあるでしょうか。

円坐や影舞をやる理由はお互いが交流し出会う。ただそれだけです。

言葉にすると簡単ですが円坐で言葉だけで交流をしていると、自分の事を伝える事にだけ精一杯になって、そもそも自分が伝えきれてないのにも関わらず相手の反応も見ず相手が話を聞いてくれないとイライラしたりする場合があります。
そう言った言葉で最早及ばない場面では影舞で言葉を使わない交流をします。

そして出会うという事は、相手を知り更に相手が教えてくれる相手から見えてる自分を知るという事です。自分という存在の在り方を他人が知っていてその他人の存在自体が自分の証明になる。それこそ最高の自己一致だと思っています。
そして自己一致した者同士でさらに交流を深めると、障害があったとしても2人の望むまま進みたいように進み続けられるでしょう。

そして今回はその出会う場所として、みっちーは自分の故郷とも言える場所を選び、ここで皆さんと出会いたいと
僕にお願いしてきたのだと了解しています。

皆様にとって西多摩は東京の片田舎という景色でしかないでしょう。

世の中の物は、場所も物体もただそこにあるだけですが、そこに人の関係性や想いがあればそれらは思い出になり
当事者たちにとって掛け替えのない価値が生まれます。
今回皆様と円坐や影舞をし出会うに当たってこの故郷と呼べる場所を選ぶという事は、大事な場所の上で
皆様と出会うという事、つまり掛け替えのない価値のある思い出にするという事です。

それが良いか悪いかはその後の自身の状態によって左右されるでしょうが、どちらにせよ人生を鮮やかにする
思い出になるでしょう。

今回は少なくともそう思い人と向かい合おうとしている人が1人います。
自分はその人と、西多摩に来て下さる人達が出会えるように全力でできる事をするだけです。

ー2023.5.20 西多摩円坐 より

人間に近づきすぎる

円坐とはただ人間関係を行い、そうすることで見えてくる自分という人間のこと、
その場にいないが出てきてしまうほど想っている他者と自分との繋がり、
そして今自分が歩いている道などを正しく認識する事だと思っています。

この場合の正しさとは自分の中で気持ちよく一致したかどうかではなく、
自分をこの世に存在させてくれる他者の認知の純度のことです。

人間関係、繋がりや絆というものは遊びでも仕事でも生活でも、
ほぼ全員が貪欲に欲しているものだと思っています。
しかしその大変さから忌諱しがちなものでもある様です。

さらにそういった事を上手く認識し探し求め近づけたとしても、
近づき過ぎると今度は見えにくくなっていき今何に触れているかを忘れてしまう様です。
人間や他人の事をわかってもいないのに慣れ始めてしまうからでしょうか。

僕はこれを人間に近づきすぎるという言い方でよく表現しますが、
自分達は人間ですが素直に人間をやりすぎるとあやふやに生きていきそうになり、
今自分が何をしてるか何もわからなくなる様です。

肉体的にも精神的にも、合わせて人間性を保ったまま生きていくにはどうすれば良いかを日々考えています。
僕が守人をする円坐ではそういったものを目指します。

それでは今年、よろしくお願いします。

ー2023.1.21 2023年度円坐守人十六番稽古生駒石切 より

他者と繋がっているのに孤独に苛まれる状態

早いもので今年で5回目の関ヶ原です。
関ヶ原では合戦の地を巡りながら各地に円坐を置いていきます。

円坐とは何ができる場なのか、
どこでも出来るのに特別な場所を設けることもあるのはなぜか、
と5年ほど考え続け守人をし続けてきました。

円坐とは円になって座るただそれだけのことですが、
大昔から人類が1日の終わりに焚き火を囲んできたように、
原始的だけども一番基本的なコミュニケーションの場の形です。

孤独が人を狂わせるなどはよく耳にするフレーズだとは思いますが、
逆に言えば他者とのコミュニケーションは人を正常化させているとも言えます。

他者がいなければ自他の区別をつける必要もないので自分自身が必要無くなっていき次第に狂っていくのかなと思いますが、
円坐の魅力は人として自分として正常な状態に戻っていけることだと思っています。

そしてコミュニケーションとは受け身に座るだけでは発生せず、
相手に伝えたい、相手を知りたいなどの相手へ働きかける強い意思が必要です。

人によっては他者へ意志を傾けるというのが非常に困難に感じる人もいるでしょうが、
それを良しとし続けていると、
周りに人がいるにも関わらず自分という人間のことを知っている人がいないという、
さながら陸の孤島のような、他者と繋がっているのに孤独に苛まれる状態になってしまいます。

普段の生活では人間関係よりも社会生活のことを優先しがちになるので
その孤独から抜け出すのはとてつもなく困難でしょう。

自分は円坐を置くというのは、普段の生活では出来ない、
人がお互いに相手へ意志を傾けることを助けるための舞台装置だと考えています。

これはメソッドや医者などに強制されて行うものではなく、自分自身のコミュニケーションですから、
自分の意思で自分の取捨選択をもって他者と繋がらなければ意味がありません。

そしてやはり自分は人と繋がれない、
そもそもそんな事を望んでいなかったと分かることも正常化であり自己一致なので、
円坐をすることでそのような結果に至る事もまたとても前向きな一歩だと思います。

場所を変えたり何かその人にゆかりのある場所で円坐をするのは、
相手へ意志を傾けるのを助けるという事の強度の調節や切っ掛けを生み、
より自発的なコミュニケーションをしやすくするためだと今は考えています。

関ヶ原という場所は普段の生活では自分の背景にならない、
色々な気持ちや切っ掛けを与えてくれる特別な場所です。

その土地に染み付いた先人たちの力を借りて自分として力強く立てる特別な舞台です。

皆さんが望む自分になれるよう、人と繋がる事を諦めず力を尽くしていきましょう。
 関ヶ原でお待ちしております。

関ヶ原古戦場円坐守人 有無ノ一坐 橋本悠

ー2023.9.17-18 関ヶ原古戦場円坐守人 より