第三回・第四回 円ノ坐芸 入門

今月より「円ノ坐芸入門」を月二回開催します。

「入門」とは簡単とかやさしいと言う意味ではなく、
有無ノ一坐が探求している円ノ坐芸、
「きくみるはなす縁坐舞台」という芸道の門前に一度「立ってみる」あるいは
「入ってみる」ということです。

「円ノ坐芸入門」では「きくみるはなす縁坐舞台」の性質について言葉と思考を立ち上げます。
ここでの言語化が精神的血肉を失わずに
「きくみるはなす縁坐舞台」の経験を深める方々にとっての
「生きた手掛かり」になることを目指します。

一般に理論とは「既成の原理に従って筋道を通した考え」のことですが、
きくみるはなす縁坐舞台の本質は既成の原理に従いません。

縁坐舞台の「無原理の原理」について、
僕の立ち位置からは以下のような思考の射程で接近します。
8分間や15分間の未二観の舞台(人生)空間全体を辿る私。
⇒てるぺんの塔を全方向(全集中ではなく)から辿る私。
⇒私を全方向から照らす空間生命の意識性への予感。
円坐に取り組むことは、実際的な思考活動=現場思考=舞台思考に取り組むことであり、
円坐の中から人生と世界を見通すことである。

感情と思考を分けずに体験すること、生きること。
既成の理論やルールや人の考えに従ってではなく、
現場に生起する「出来事」に従って判断すること。
円坐舞台の体験とは悲劇と幸福の両方であること。

目の前の「この事実」「この出来事」に対してどう対処するか、
どう生きるかを守人は常に自問し続けること。
一つの理論や学問だけで世界や人間を判断することは傲慢不遜であること。

円坐にあらわれる出来事の根源を辿り合い、
不確かな要素をその都度、
現場舞台に立ち返って解明することの重要性⇒「後詰めの円坐」
円坐の成立要件とは「全身と全霊で『てにをは』を辿ること」→「てにをはを辿る」とは何か。

ロジャーズの態度的三条件から空間的無条件への領域移行。
The way to do is to be.→ the way to do is to be all, or to be nothing.
縁坐舞台の本質は理論固定できないがその性質をことばで描写することはできる。
詩の言語、歌の言語⇒影舞言語・ヒトガタ言語。
現に生きている人間を理論化、機械化できないのと同じ状況。 
円坐は既成の目的や利害を維持補強するためには役立たない。

円坐を開き、てにをはを辿り、全身全霊で舞台空間を生きると破壊と革新が起こる。
稽古の段階的指標。
影舞舞方⇒未二観辿者⇒円坐守人⇒縁坐舞台ヒトガタ・囃子方⇒縁坐舞台守人⇒円坐舞台守人
集団の中で主体的に動けることを目標とする人間像(19世紀~20世紀のモデル)
⇒空間全体を新しい「自分の身体」として感受する人間の出現。
⇒「世界空間としての自分」の誕生(21世紀以降現れるモデル)

円坐守人、影舞人として通り抜けるべき危険地帯。
⇒自分の内面に耽溺し、恍惚感、至福感、解放感などの「洗練された利己主義」に陥ること。
⇒個我が「自分」から抜け出し、外界や他者のもとに出向いて真剣に対峙し、
仕合うこと(円坐)による「洗練された利己主義」の克服。

単なる観察や反省にとどまらず、外界に向かって「自分」から「出る」ことで「何か」を体験すること。
他者=自分以外の存在への集中・対峙・仕合によって自分の心魂の中に体験する自分以外の「何か」。 
自分の内面だけで完結し、人生を通り過ぎさせるのではなく、
外界の中心に存在する精神領域に出合うこと。

自分の内面と外面を一つの大きな精神世界の二つの面として統合する円坐舞台の空間。
⇒現代のこの世界状況に生きる我々は外界に出ていかねばならない。
「他者」に会いに往かねばならない。
⇒世界を呼吸するため。この地球に生きるため。
世界や他者の本質が自分自身の個我の本質と等しいことを発見するため。
自分の内面を外的なものと対峙させ仕合うことで稽古を深める。
⇒内的世界と外的世界が本来ひとつであることの予感ないし発見。
⇒内的な理念や思考内容が心魂の前にはっきり現実として現れる舞台空間。
⇒手で物をつかむように徹底的に思考を把握する「てにをは辿り」。
「属」として多数が同じように成長する植物や動物と、
個我精神として一人で変革しメタモルフォーゼ(変態・反転)する人間の根本的な違い。

☆☆☆

はるかなるメタモルフォーゼ、
「この世の名残り 旅の一坐・オデッセイ(魂の遠征)円坐街道」の至上の歓び。
今月は兵庫県須磨一の谷、香川県屋島古戦場、香川県三豊こだわり市、
ゴールデンウィークは第三次高知県四万十遠征へ。
懐かしい名残りの旅の一坐は、日本のふるさと円坐街道をオデッセイし、
道行きを辿り続けて参ります。
よろしければ貴重なこの世の旅路をご一緒いたしましょう。

有無ノ一坐 橋本久仁彦

私たちは、毎年、保育園の五歳児クラスで一年間きくみるはなす縁坐舞台をしています。

5歳も、50歳も60歳もたとえ70歳であっても基本は同じです。
真剣に向かう他者が自分の本質を映し、環境や生育歴ではなく周囲の人や背景が、
自身をあらはしています。

舞台の上では、社会経験を積んで習得した術は役に立たず、
自分で勝手に作りあげてきた自己像も崩れ去ります。

一人きりで存在していない五歳児の子どもたちは、
周囲の人の在り様や環境と密接に関わって生きていて、

持って生まれた精神とともに、いきいきと思考し鑑みているので、
舞台をとても面白がって見たり、舞台にとても出たがります。

きちんと思考しているのは、子どもの方なのかもしれません。
大人は、舞台に立つことで、今まで作りあげてきた、今までの自分は、一度死にます。

他者の背景を縁にして、あまねく音が響き渡る世界へ参入するなかで、
他者の声を聞くことが大切ではないかと感じています。

実際に、きくみるはなす縁坐舞台で、実践を重ねて参りましょう。

松岡弘子


< 第三回・第四回 円ノ坐芸入門 > 

日時 4月13日・27日 木曜日 19時~22時 
場所 大阪千代崎スタジオ
守人 橋本久仁彦 松岡弘子 
参会費 7千円
連絡先 橋本久仁彦(enzabutai@bca.bai.ne.jp) 

限りなく古く同時にまったく新しい日本の舞台芸能を探求する
有無ノ一坐の現在認識を提示します。
参加される方は3時間の「有無一稽古」とひとつになり、
日常とは異なる時空間(舞台空間)に参与します。

この時空への参与には未二カウンセリング(未二観)の素養が必須ですので
毎回8分ミニカンを行います。

傾聴の道の極北である未二カウンセリングの学びに
関心がある方にも適切な入門クラスです。

有無ノ一坐 橋本久仁彦

わたしたちのそのままの姿と、
関わり合う精神がくっきりそのままあらはれる影舞や円坐とおなじように、
未二観のベースにも同じ精神構造があると思います。

あまた無数にあふれる現実は、
一見、多世界として同時に存在しているように見えますが、
踏み込んで他者の世界へ移動して他者の存在にふれ他者との間の事実を生き始めると、
生死をこえて精神的に関わる出来事が起き始めます。

生まれて初めて人と仕合って死んで、生まれ変わって、
ふたたびもう一度その場所に立ち帰って、人と会う。
そこでようやく、一生の舞台をふりかえることができるのでしょう。

未二観は古い舞台芸能の礎であり、
最新の精神芸術であるというのが、いまある認識です。

それでは第二回「円ノ坐芸入門」心よりお待ちしています。

有無ノ一坐 松岡弘子