62年目の軽井沢に置かせていただく円坐
皆様。
標記の円坐のお知らせを発信しましたら、僕が二十代の頃、
カウンセリングの体験学習に明け暮れていた頃の恩師からメールを頂きました。
先生には10年ほど前にもメールを頂きました。
10年に一度の恩師からの便りです。
その時は大阪でたくさん円坐を実施していた我々に対して、
「非構成のグループをこんなに高い頻度で続けている所は世界的に見ても無いです。
すごいことですね。」
と、大学の研究者としての先生の御感想を頂いて、とてもありがたく、
仕事への勇気が湧いたものでした。
もう大学もリタイヤされて久しい先生からの、
10年ぶりのお言葉を拝読させていただいて、僕も、
若かりし頃の先生と一緒に山道を歩いているような懐かしい気持ちになりました。
「62年目の軽井沢を読ませて頂きました。
私は、小学校2年まで、上田で過ごしていました。
両親がスキーをしていましたので、そのころは、軽井沢のスキー場に良く行きました。
中学から東京に移り住みましたが、親戚が上田にいましたので、
高校、大学時代は、小諸駅から良く、浅間山に登ったり、鬼押出しに行きました。
懐かしいです」。
歳を取ると、若い頃は外に在ると思っていた景色が、自分の内側にあることに気づきます。
「懐かしい景色」とは、ひとつの人生を経て大きく広がった自分の魂の景色です。
我々はその魂の「懐かしい景色」の中へ改めて旅立っていくようです。
また先生にお目にかかれる良き日、良き場所に向かって、
仲間とともに旅を続けていきたいと思います。
はしもとくにひこ
< 62年目の軽井沢に置かせていただく円坐 >
日時:2023年7月4日(火)~6日(木)
場所:長野県北佐久郡軽井沢町白樺台周辺
宿泊:白樺台まなびー山小屋(民家への宿泊となります)
守人:橋本久仁彦 松岡弘子 芳野学
会費:円坐 参加費 四万円
実費:別途 食費、星野温泉とんぼの湯利用料など
持ってきていただきたいもの:懐中電灯(敷地内及び周辺に屋外照明がないため)、
歩き易い靴(そこそこの距離を散策します)
申込:enzabutai@bca.bai.ne.jp 橋本久仁彦
soumon.enza@gmail.com 松岡弘子
主催:芳野学
「 62年目の軽井沢に置かせていただく円坐」に寄せて。
主催の芳野学氏からの最近のお便りに以下の言葉がありました。
「人と出会うこと、それはそのご縁を辿ることで、亡くなった方、
健康上の理由などでそこに来ることができない方と出会うためのものと思います。
(中略)感動しています。この歳になり、感動することが出来るのはありがたいことです。
ありがとうございます。
私のこの世に生まれ生きる意味に体を運ぶことを、まだしばらくは続けられるだろうと期待を持てることもありがたいです」
この世に生まれた我々はどうしても生きる意味を求めます。
生きる意味は、自分ひとりでいくら考えても明らかにならないようです。
氏が見事に表現されたように、
「生きる意味に体を運ぶ」
ということ。
生きる意味とは「ある場所」に明瞭に存在し、それは地上と重なった精神的な場所です。
昨年「この世の名残り旅の一坐円坐街道」で訪ねた広島の沖合に浮かぶ江田島で、
ある坐衆のご両親の墓所を訪ねました。
無数の墓石にはすべて「倶会一処」という言葉が記されています。
「一つの場所でまた会いましょう」という意味だと教えてくださいました。
生きる意味とは「ある場所でまた会うこと」であると思います。
「また会う」とは物理的に二度会うということではなくて
「本当に会う」ということ。
その時、両者の間で地上と精神とが「出会い」
それを「祭り」として祝うのだと思います。
我々はその祭りを「円坐」と呼んでいます。
夏の軽井沢でまた会いましょう。
有無ノ一坐 橋本久仁彦
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まなびーこと、芳野学さんと初めて出会ったのは12年くらい前でした。
橋本久仁彦さんを通じて、お便りの中で言葉を交わした時でした。
そのお手紙のなかには、お母様のご様子がしたためられていました。
不思議なことに今でも、まなびーのお母様の面影が生き生きとした存在感で残っているのです。
そして、まなびーは、円坐にご参加いただく度、いまでも変わらずお便りを送ってくださいます。そのお便りを読むのが、とても楽しみです。
昨夜送っていただいた最新のお便りのなかに「有無ノ一坐のみなさまとそこに関わるみなさまのおかげで、この世に人が生まれることの「意味」を、私は生きて実体験するところまで来ることが出来ました。」という一文がありました。
この、まなびーの言葉の更に深いところにある生きることの「意味」と、高槻市芥川での皐月のふるさと相聞茶堂に参加してくださった川浪さんがある青年との未二観の空間で語られた以下の言葉とが、見事に呼応しあっていて、時間も場所も越える相聞的ダイナミズムにしずかに感動し拝読いたしました。
「こういうかたちで出会える機会っていうのが、思いもよらないようなかたちで、用意されていっているというところが非常に想いを深くするっていうか、感動するっていうか、そういう体験っていうのを改めて今していってるところで、生きているっていう事は色んな山とかはありますけれど孤立無援っていうことは、ある意味あり得ないのではないか。誰かに支えられてもいるし見守られてるなかで生きてこれてるのではないかと想いを深くしております(遠くで子供の話す声)そう言ったことも今日お話もできて本当に有難いなあと思います。」(川浪スヱ子さんの未二観の言葉)
川浪さんは、石切相聞茶堂で、まなびーのお母様との思い出の片山廣子さん作「北極星」の朗読での影舞を、まなびーと一緒に観てくださいました。
「とても感動しました」と仰っておられて、その時の映像が石切の周囲の音や背景と共に鮮やかに思い出されました。石切と軽井沢も円坐街道でつながっていたのでしょう。
それでは、62年目の軽井沢を祝し、軽井沢円坐の守人の一人として精一杯つとめさせていただきたいと思っています。どうぞ宜しくお願いいたします。ご縁をお待ちしております。
有無ノ一坐 松岡弘子
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軽井沢円坐案内文
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●62年目の軽井沢に置かせていただく円坐
私が始めて長野県軽井沢町に滞在したのは1歳の夏。それは両親にとっても初めての軽井沢。両親はかの地が気に入り、翌年の夏から父が白樺台に建てた山小屋で過ごすことになりました。
今年私は62歳になりましたので、私には62年目の軽井沢となります。
2歳のときから1年も途切れることなくお世話になった白樺台の山小屋とその土地へのお礼の円坐を置かせていただくことを昨夏思い立ちました。
幸い有無ノ一坐のくにちゃん、くぅさんに遠方からお越しいただき、円坐を置かせていただけることになりました。
ここまで書いたように、この円坐は白樺台の山小屋とその土地へのお礼の円坐ですから、そこで過ごすことが主眼となります。
とは言いましても2日目は旧中山道・碓氷峠見晴台に出向き、そこから遊歩道を1時間ほどかけて下り、中山道の宿場町から発展した軽井沢のメインストリートである旧道周辺、時間があれば雲場の池などを散策します。
その辺りは両親を始め友人らと毎夏幾度も出かけた思い出の多いところなのですが、特にこの3年悲しくなるような変わりようです。
道路から家が見えないほど広いお庭のあった別荘がマンション、ホテルになり、私が思っている軽井沢の面影が急速に無くなりつつあります。
むしろ今まで、よく昔のままであったのでしょう。
「62年目の軽井沢に置かせていただく円坐」に来ていただいた方々に、白樺台山小屋とその土地、旧道はじめ私が慣れ親しんだ軽井沢を眼差していただき、そこから生まれることばを聞かせていただきたいのです。
そのことでいずれ私に代って付き合って下さる方に白樺台山小屋とその土地とお譲りする、私が慣れ親しんだ軽井沢がすっかり無くなってしまう、私が身体的に軽井沢に出かけられなくなってからも、
はっきりとそれらに帰ることができるようになればとの願いがあります。
話題は変わります。今年春のお彼岸、萩円坐街道に参加させていただきました。
新幹線新山口駅(小郡)から車で萩に向いました。その際、毛利氏が参勤交代用に整えた山口・防府へと通じる萩往還と呼ばれる街道の傍を通りました。
萩往還に涙松と呼ばれるところがあります。
涙松について萩市観光協会公式サイトから引用します。
人々が萩のまちとの別れを惜しみ涙した場所
萩城下から山口・防府へと通じる萩往還沿いにある碑。ここを過ぎると萩の町が見えなくなってしまうため、ここが城下を見ることができる最後の見納めの地でした。
人々はここで松並木の間に見え隠れする萩を見返り、別れを惜しんで涙し、また帰った時には嬉し涙を流したということから、いつしか「涙松」と呼ばれるようになりました。
幕末、吉田松陰が安政の大獄で江戸に送られる時にここで
「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入ぬるる涙松かな」の一首を残しています。
一入は「ひとしお」と読みます。
(引用はここまで)
さて、萩から小郡に向かう帰り途、この涙松で2つの影舞を置かせていただきました。
それは前日から萩を訪れ、萩の景色(吉田松陰の墓所、吉田松陰の叔父旧宅、旧城下、菊が浜、野山嶽跡、松下村塾など)、空気、萩の方々の吉田松陰への思いに触れ、円坐、影舞を置かせていただいた後、この萩円坐街道最後の影舞となりました。
私が置かせていただいた影舞の際、くにちゃんが大河ドラマ花神(幕末、維新期に活躍した萩藩出身の大村益次郎を描いたもの)のオープニングに流れる曲を選曲してくださいました。
https://www.youtube.com/watch?v=gscCT5HK92g
このドラマは私が高校1~2年生の時に放送され、私はこの曲を含めとても好きで、50年近くたった今でも時々見ています。
その選曲のおかげもあり、この影舞では高校の修学旅行で萩を訪れた時から今までの50年近い時間の経過、その中にいろいろな出来事があり、そして今も生き続けていることへの言葉にならない思いを体験しました。
そして私の死出の旅路のおり、いよいよこの世とお別れするところの景色は涙松。涙松でこれがこの世の見納め、そしてそこまで見送ってくださった方々との永遠のお別れを行うことになると思うようになりました。
萩円坐街道を終えてからこのような体験を綴った文を、連れていっていただいたことへのお礼を込めてくにちゃん、くぅさんに送らせていただきました。
くぅさんから「いよいよ今生の人生を発つ時には、各地に涙松があれば、きっと、そこには沢山の思い出や大切な人の面影と、きちんと本当の再会がきることになるのだなあと、思いました。」
という言葉をいただきました。
62年目の軽井沢に円坐を置かせていただくことで、白樺台の山小屋とその土地、軽井沢が各地にある涙松の一つ、
それは沢山の思い出や、両親始め大切な人の面影と、きちんと本当の再会がきるとことが出来る場所、この世に生まれてよかったと思える場所になればと願うのです。
2023年5月吉日 まなびー/芳野 学