人間としての対話を求めて

10月8日水曜日に亀井直人さんをゲストにお迎えしまして、東京都葛飾区柴又にて下記円坐を開催いたします。

< 人間としての対話を求めて >

日時:2025年10月8日水曜日10時~16時15分
場所:東京都葛飾区柴又(詳細は申込後にお知らせします)
守人:橋本久仁彦 松岡弘子 橋本仁美
参会費:16,000円
申込先enzabutai@bca.bai.ne.jp 橋本久仁彦
有無ノ一坐:ウェブサイトhttps://umunoichiza.link/

○ 亀井直人さんからのご挨拶の言葉 ○

亀井直人と申します。今は福岡に住んでおりますが、人や組織・社会の問題を解決したいと願って様々な場に生業として赴いています。仕事の他には、15年ほどファシリテーションの探究と実践を続けています。ファシリテーションに関わった理由は、いまの生業の前にITシステムの導入業務(システムエンジニア・プロジェクトマネジャー)をするなかで、人と共に仕事を進める難しさと楽しさを知ったから。人と話すことを仕事にしましたが、いまでも人に話しかけるのはちょっと苦手です。

生業の変遷もありつつ、暮らしているまちの老舗NPOでまちの場づくりに取り組み、子どもが通う中学校ではPTA会長として学校・地域に関わる。いつも慌ただしく活動をしていますが、それほど時間に追われるでもなく、少しづつ多くの方々と関わっていられることに、概ね安堵しているところです。

さて、今年の1月13日に都内で開かれた「ファシリテーションを超えて」に参加したことをきっかけに、今回の場の呼びかけに私も入ることとなりました。

時は遡って、2018年に「影舞」を知り、くにちゃんが居る円坐との出会いはおそらく2021年。いまでも良く覚えているのですが、参加した円坐の時間、ずっと論点や前提のずれをすり合わせや伝えなおしをしていたなぁ。我ながら随分と変わった立場で話し合いに加わるようになったものだったなと思いつつ、、何をしていたかは沁みついていますが、どんな話をしていたかは、どうにも思い出せないでいます。

論点のズレや前提の違いを揃えていくのは必要だと思って続けていますが、円坐でそのスタイルで話をしていくと、どんどん自分の存在がその場から薄らいでいきます。なにもしない(と思われる)のが、良いファシリテーターと言われますが、その場にいた自分の時間をつかって、でも自分の考えを伝え合わないことが、本当にその場に居る人たちと関わっていることになるのだろうか。久しく対話をしていない、と感じるのはいつもファシリテーターとしてのマインドを忘れないようにしたいと思っているからではないか。。。

都内で開かれたその円坐では、どんな文脈か忘れてしまいましたが、前日宿泊していた近辺にある施設を見ていたときの自分の気持ちを話す機会があり(その施設を見ていたら腹が立ったって話です、なんのことやら)、ただ、その話をしたらパッとくにちゃんの顔が変わり「それで?どうしたん?」と言われ。それ以来「あんときの亀ちゃんがさぁ」と、度々言われ、かかわりが続いて、毎月の「はかた円坐」に参加するようになっています。

「はかた円坐」については、主催の吉次さんとのかかわりもまた長いので、その話もしたいところではありますが、それは今度においておきます。

あの日のかかわりがなければ、場には居るけど存在していない、そのままの姿でわたしは変わらず居たのかもしれません。それ以来は、ひとりの人としてその場に存在し、話す・きくを通じてくにちゃんや有無ノ一坐のみなさんとのかかわりが続いています。

なぜだか定期的に私宛に届く、場づくりの無理難題をくにちゃんに相談しつつ、くにちゃんのアドバイスを受けてもそこまではできないなぁ、、、と思案しながら、自分の姿で場に対峙することを、以前より一層真剣に、それでいて楽しめるようになりました。

今回開かれる場で、人と人としてのかかわりあいを感じることを楽しみにしています。

亀井直人

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人間としての対話を求めて
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わたしから見える亀ちゃんこと亀井直人さんは、人間のすぐそばにいき体制(システム)に向かっても臆せず怒り、切り込んでいく人です。

亀ちゃんと初めて会ったのは、今年の1月に東京で開催した「ファシリテーションを超えて」でした。そのなかで対話について亀ちゃんとやりとりしました。人間としてとても面白いやりとりでした。

帰りの道中、ちょうど富士山の見える場所にさしかかった際、鳥取のご両親に会いに行かれているお話は、特に人間と一緒にいたい亀ちゃんの姿勢のあらわれともいえます。

共通目的を認識したうえで人格的に適切な言葉づかいを用い、お互いの立場や考えを相互理解しあい最適解に至るのは、非常に限定的な対話ですが、

そのまんま人間同士の言葉でやりとりし、時に対峙したりぶつかりながら、他者と新たな境地を切り拓いていく人間としての本質的な対話は、限定解除した素のままの人間としての対話であると言えます。

波風立たせず、どんな人ともわかりやすくあわせてはなす話し方や人間関係に効果的な聴き方ができるチャット脳は、おそらくオンラインビジネスの世界においてはメリットがあるのかもしれませんが、「人間としての対話」では、かえって荒々しく波風が立ちます。

こんな時代だからこそ、本物の対話を取り戻そうではありませんか。

有無ノ一坐 松岡弘子

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☆彡 第二弾 人間としての対話を求めて ご案内 ☆彡

来月10月8日、東京葛飾区にて、日本ファシリテーション協会協同促進プログラム委員長、亀井直人氏×有無ノ一坐の「円坐~人間としての対話を求めて」を開催いたします。

これは、今年1月に同じく東京で実施した円坐舞台「ファシリテーションを超えて」の第二幕になります。

我々現代人は、今までのどの時代よりも切実に、人間と人間との実存的なかかわりあいを求めています。

そして今までのどの時代よりも、人間同士の生身のかかわりあいを管理し、自分と他の人間との間にだけ生じることができる自然で情熱的な「かかわりあい」を、均質化した計算と情報に置き換えています。

「わたしとあなた」という全体まるごとの真摯さと敬意によって生まれる実存的、永続的な「人間同士のかかわりあい」は、この50年間で大きく衰退したかのように見えます。

その代わりに、「わたしとそれ」という対象的、効率的、断片的な「かかわり方」が、広範囲にわたって台頭しています。

「かかわり方」とは、未知の情熱による不安や揺れを回避し、知的にコントロールしあう人間関係のことです。

こうして、現代人の内面世界で対立する二つの精神性の交差は、人類全体に影響する興味深い状況を日夜生み出しています。

喫緊の問題である「我々が生きている日常の人間関係の状況」を、「場作り」をする者がどうとらえ、どう経験しているかによって、ファシリテーションが「必然的に促進せざるを得ない方向」が大きくふたつに分かれます。

ひとつは、現代社会の趨勢を自分自身の「プロセス」として同一化し、非実存的なファシリテーションや対話のワークによってかかわりあいの対象化、断片化、効率化を促進する方向。

これは現代になって初めて登場した「人間のかかわりあいの物質的技術化」の文化です。

もうひとつは、過去や未来を固定する直線的な時間概念から離れ、社会的な「振る舞いのコード」も超えて、有機的、全体的にかかわりあう方向。

これは、あなたとわたしが現在過去未来をひとつに統合して曲線的にかかわりあい、「球体の歴史的実存」として、今ここで存在をまっとうする方向です。

「プロセス」という言葉は、特定の目標が前提とされた直線的な時間過程を示す閉じた概念です。

「かかわりあい」という言葉は、わたしとあなたの実存と、世界全体が介入する未知の生成の現場を指し示す開かれた表象です。

「かかわりあい」の世界には、何が起こるかまったくわからない「未知」の曲線の時間と球体の歴史があります。

「亀ちゃん」こと亀井直人氏が挨拶文で、「はかた円坐」主催の吉次潤氏に言及しておられますが、今週28日の日曜日に博多駅前で開催される「第14回はかた円坐~縁起をまとう」は、この曲線の時間と球体の歴史の中から生まれました。

「潤ちゃん」こと吉次潤氏が、自らの生き様からそれを名付けて「はかた円坐~縁起をまとう」と号されたのでした。

円坐には、ワークショップのような「計画されたプロセス」や「予測された結果」がありません。

作為が落ちて血の通った裸のかかわりあいが残るのみであって、亀井直人氏と我々、吉次潤氏と我々の「円坐のかかわりあい」が、そのまま今も躍動しているだけです。

両氏とのかかわりあいは「プロセス」ではなく、実存する人間と人間の永続する「一緒にいること」です。

それが「血の通った身体としての歴史」の始まりであり、ふたりの間で実現する「ふたりが生きたこの人生の結果」なのです。

「この共闘によって得られる成果は、友情以外に何もない」
『テロリストのパラソル』

有無ノ一坐 橋本久仁彦

☆彡 第三弾 人間としての対話を求めて ご案内 ☆彡

2年ほど前まで円坐とファシリテーションの区別もつかず、全力で円坐やったつもり(“つもり“も最近頻出のホットワードです!)やのに「姉ちゃんがやってるのは円坐じゃなくてファシリテーションや」って悠に言われる始末でしたが近頃ようやく見えてきましたよ!

といっても、くぅ(副坐長 松岡弘子氏)が言うことに張り付いてるだけですが!😂

わたしは、ファシリテーションが嫌いではありません。むしろ楽しいし好きです。
でも、円坐じゃないと到達できないところがあるからメインは円坐、ときたまファシリテーション使うっていう感じです(笑)

以前は、なんでくぅは、言ってることがわけわからないのに人と「そ、そんなところまでいけるの?!」っていうくらい関係をどんどん築いていけるんやろ⁈って思ってました。
それがわからなくて知りたくてかぶりつきのこの五年間でした。

「論理的に成立するとかかわれない」
今回はこのあたりをかめちゃんとどんどん話していきたいなと思っています。

かめちゃんが案内文に書かれてる「場にはいるけど存在していない」とか「どんどん自分の存在がその場から薄らいでいきます」という箇所を読んで、つい先日高槻のピッコロ保育園で保育士さんと円坐したときに聞いたやりとりがバン!と浮かんできました。
「いるけどいない、存在が薄い」とかいうことってわたしも誰かに対して言ったこと何度もあるし円坐や影舞してて度々あちこちで耳にする言葉だったんですが長年その根拠がよくわからず説明もできませんでした。しかしこれが一体どういうことだったのか!そこが見えた場面でした。

「論理的に成立しない、だからやりあえる。
逆に論理的に成立させようとすると、ちょっとずつお互いが無理して自分の筋から外れる」
そういうことをくぅは言っていました。

自分の筋から外れる、だから存在が薄れる!
安易に論理的に成立させてしまわずに自分の筋に立ちやり取りし続ける。そうやって筋を通すことで切っても切れない絆が生まれます。これが昨今流行りのさまざまな「対話」では到達できないところなのではないでしょうか。
ここが、私が「対話を促進する」役割であるファシリテーターよりも円坐の守人のほうが面白いと思う所以です。私にとってファシリテーションは論理的な成立を楽しむゲームです。

こんなふうに書くのはファシリテーションを生業にする人を批判して対立するためではなく、人間関係に向き合う仕事をしている者同士誠実に語り合い人間関係に対する視力(=人に向き合う足腰、感受性、解像度)を高め合うためです。

10月8日、東京で、それこそ熱き対話の場を開催しますのでどうぞご一緒しましょう!

有無ノ一坐 橋本仁美