横浜寺家(じけ)円坐
横浜寺家円坐をご案内いたします。
中尾聡志さんと2年前、〜春の京都「無鄰菴」にて、京里円坐(みやさとえんざ) をひらきます〜 を開催し守人をつとめさせていただきました。そして今回は有無ノ一坐坐長、橋本久仁彦と共に横浜寺家「里のengawa」へ円坐の旅に参ります。
山縣有朋の師吉田松陰は、ふるさと萩の松下村塾において、うまくできるかどうかではなく、至誠を貫き動くことを門下生に伝え、野山獄中においても、なお囚人や看守に対して、至誠を以ってして関わりあい、久しく人々に残り続けています。
円坐も然り。やり方などなく、至誠無息の道です。
やがて、周囲の音や、懐かしい面影、その土地の景色が、風景となっていきいきとよみがえって参ります。
それでは、ご縁をお待ちしております。
有無ノ一坐 松岡弘子

〈横浜寺家円坐〉
日 時 2026年2月4日(水)5日(木)10時〜17時
場 所 里のengawa いろり庵
https://satonoengawa.com/contact-us
〒227-0031 神奈川県横浜市青葉区寺家町522
参加費 25,000円
守 人 橋本久仁彦、松岡弘子、中尾聡志
世話人 中尾絢子、長女(5歳)、次女(3歳)
申込み メールにてお申し込みください。
ordinaryworld2010@gmail.com
★☆
横浜在住の熟練のファシリテーター、中尾聡志さんと円坐を開催します。
「ファシリテーション」に熟練すると、人間関係を概念で経験するようになります。
起こった出来事をまず観察して、概念(スキル)を当てはめ、人々のコミュニケーションプロセスの「最適解」に向かってファシリテート(促進)することに疑いを持たなくなります。
会社や団体の会議などでは、組織の価値観と個々の意見の対立を最適解へ向かって調整するためにファシリテーターが活躍しています。
しかし、例えば「中尾聡志」と「橋本久仁彦」という、世界に二人といない唯一無二の人間存在が、お互いのすべてをかけて真剣にかかわりあおうとするとき、ファシリテーションや傾聴や共感や様々な既成のスキルを使うと、中尾聡志と橋本久仁彦が唯一無二の存在であるという真実が、削除されてしまいます。
中尾聡志と橋本久仁彦の「唯一無二で他のどこにもないかかわりあい」は、スキルを使用することによってその場にいる全員が共有できるように一般化されていきます。
傾聴や共感や肯定感といった誰にとっても気持ちがよく、誰にとっても使用可能なかかわり方のスキル、すなわち一般概念に置き換えられていくということです。
こうして我々は、唯一無二の存在であるという人間の尊厳と誇りを消失し、「みんなと共有できる平均的なコミュニケーション」を行う集団の中の一人として整えられていきます。
中尾聡志さんが述懐されているように、熟練したファシリテーターが、自分自身が陥っている人間関係の平均化や均質化の習慣から抜け出すのは大変困難なことです。
自分のファシリテーターとしての仕事や生き様を見直し、まず人のニーズを考えてしまう自動化した人間関係の態度を一度手放して、まったく新しい、未知の自分自身として生きる実感を、心の底から感じられるようになりたいと思ったとしても、ただちにファシリテーションやワークの思考態度が発動して、「やり方」を考えてしまうからです。
存在する喜びや生きる実感を得るために「やり方」を考えることはできません。
野に咲く花がやり方を実践しているのではないように。
では、経済効率で運営される会社組織に導入されたファシリテーションというやり方は、組織を維持発展させるために本当に効果的なのでしょうか。
著名なファシリテーターの書物を見ると、多くの人に分からせるための概念や「やり方」であふれていて、「他者が唯一無二の人間存在である」という体験と認識については書かれていません。
書店には、あとからあとから似たような概念を組み合わせた本が出版されて並んでいます。
地方に円坐旅をして、多くは一人で暮らす土着のおじいさん、おばあさんから、地域創生や町おこしに起用されたファシリテーターの振る舞いについて聞くことがあります。
「あの人たちがなにをやってるのか知らない」「しばらくしたらいなくなる」「人はたくさん来てもみんなイベントで終ってしまう」といった言葉を聞くとき、僕は地域の人間関係に、ファシリテーションというテクニックを使用することの功罪について考えます。
ある自由な気風を標榜する学校では、中学生にファシリテーションを教えているとのこと。
13歳や14歳の段階ですでに、効率的な人間関係や、「みんなと共有でき、みんなに肯定される」かかわり方を組織的に教えられているということに、僕は心底驚きました。
僕が高校教師の時に実践していた「教えない授業」では、効率的どころか毎日何か思いがけない事件が起こり、いつも全身全霊で生徒や教師集団や親たちとかかわり続けていました。
3年間でクラスの生徒数が3分の2に減ってしまうような高校では、何かの技法を使っても、生徒たちはすぐに見抜いて反抗します。
生徒たちの人間関係の基準は、僕が彼らに対して本当に真剣にかかわっているのかどうかという一点だけでした。
一対一で対峙し、対峙するからこそ湧いてくる生徒に対するリアルな気持ちをぶつけて、「この教室の状況、校長に見つかったらクビになるんとちゃうか」と、ドキドキしながら必死にかかわり続ける日々でした。
もう40年も前のことですが、彼らの表情や教室の雰囲気、教室の内外で起こったエピソードが生き生きと浮かんできます。
しかし僕が大学に所属するファシリテーターとして、様々な技法を使ったワークショップを行っていた頃、出合ったはずのたくさんの人びとは、顔も浮かんでこないのです。
九州や四国でかかわりあったおじいさんやおばあさんは、ファシリテーターに本気で顔を覚える気がないこと、彼らがすぐに立ち去ってしまう人種であることを、はっきりと感じ取っていたのです。
ファシリテーションを教えられている中学生は、仲間の顔をいつまで覚えていることができるのでしょうか。
そして、僕は中尾聡志という人間の顔を、いつまで覚えているのでしょうか。
僕が死ぬ時に、必ず彼のことを特別に思い出すことでしょう。
円坐とは、そういうかかわりあいなのです。
有無ノ一坐 橋本久仁彦
☆
〈宣言文〉
横浜市寺家町にある里のengawaさんの庵をお借りして、
橋本久仁彦さんとくぅさんこと松岡弘子さんに来ていただき、
円坐をひらく運びとなりました。
昨年2025年の2月から、
大阪石切の円坐守人稽古会に参加し、
橋本さんとくぅさんとは、全国から集まっている坐衆のみなさんとともに、
毎月円坐の時間を共にしています。
今回は大阪とは違う地元横浜の地で、お二人と新たに集う坐衆のみなさんと、
どんな時間を過ごせるか今からどきどき楽しみです。
稽古会では、
僕が何か動いたり話したり、
もしくは黙っていたとしても、
言葉や態度に長年実践してきた
コミュニケーションスキルが滲み出ているようで、
摩擦や衝突が起こります。
僕は、摩擦や衝突を避けたいので、
スキルのようなものは使わないように
自分のありのままを出そうと努めますが、
そもそもその態度が打算、自分で状況を操作しようとする態度だからか、
結局、新たな摩擦や衝突が起こります。
毎月の円坐で何度もそういうことが起きるので、
最近はもうこれはしょうがないかという気持ちになってきました。
そもそも「ありのままを出そう」ってなんなのか。
「ありのまま」なんてものを先に想定しているところから、
すでにズレている気がします。
でも、しょうがないと思うようになってから、
どこか気が楽になったというか、
摩擦や衝突を受け入れて、
いや、むしろ摩擦や衝突が起きてこそぐらいの気持ちで
円坐に向かってみようという気持ちになってきています。
あれだけ避けたかった摩擦や衝突にもかかわらず、
そんな風に思えてきたのは、円坐稽古が毎月繰り返しあったからだと思います。
一度や二度の円坐では感じられなかったと思う。
衝突している最中はどきどきするし心地のよいものではないことが多い。
でも、そのことをきっかけに、今まで思ったこともなかったこと考えはじめたり、
自分が他者に対してどんな反応や振る舞いをするのかが見えたり、
相手の存在がはっきりと自分に中に残るようになったり。
円坐である人とぶつかったあと、
次の稽古会までの1ヶ月、毎日その人のことを思い出すようなときがありました。
ただの考えすぎ、一人の妄想とも言われそうですが、
自分を油断させない存在、気持ちを引き締めてくる存在として、
今でもふと、その人の姿と言葉を思い出します。
有無ノ一坐のみなさんには、
かかわりつづけるという態度や生き様を、
言葉ではなく、その態度や生き様そのもので
伝えてくれていると感じています。
ぶつかってみてはじめて見えてくる相手や自分の姿。
いい関係になる保証はなく、険悪になることだってある。
ただ関わりつづけると決めたなら、関係はつづく。
衝突を超えた関わりあいの先に何があるのかを見てみたい。
まだまだ衝突を避けがちな自分ですが、
今ある自分を投じて、他者に向かってみたいと思います。
ご縁ある皆様のご参加をお待ちしております。
中尾聡志


