石切・円坐舞台守人十六番稽古

〈開催決定にあたって守人よりご挨拶〉

円坐舞台守人十六番稽古は「口承即興円坐影舞有無ノ一坐」が円坐舞台守人としての立ち方、世界への関わり方を伝達する八ヶ月にわたる通し稽古です。


有無ノ一坐では、我々人間の人生をとてもシンプルに見ています。人生とは、この私が生きて活動することのできる限られた舞台の時間です。

そして我々が自分の人生を創造しているこの世界は、肉体の寿命が尽きて彼岸の楽屋に戻るまでの限られた舞台の空間です。


一日の昼間、目覚めている間、我々は生き生きと活動します。

もうすぐ夜が来て、光にあふれた昼間が終わってしまうことを知っているから、明るいうちにやりたいことをやります。


そして夜、布団に入り、今日一日を生きた余韻を胸に抱いて、無意識の世界へ眠りにつきます。


こうして毎日我々の意識は途絶えています。


人生最期の日には、我々の意識は途絶えたままとなり、家族や友人たちが見慣れ、親しんだわたしの肉体の目はもう二度と開きません。


わたしの顔の表情も二度と他者に向かって生き生きと輝くことはありません。


動き と輝きの無くなったわたしの肉体は焼かれて土と空気になります。


我々にとって、その都度肉体から意識が無くなり、まるで死者のような「眠り」に落ちたあとで、また新しく始まる「今日の一日」は、我々が一度だけ生きる人生全体のひな型になっていますね。


「きくみるはなす円坐舞台」は、この「今日の一日」と同じく、我々一人ひとりの人生全体の精神のひな型です。


我々が生まれてから死ぬまでの生き方、考え方、感じ方、関わり方のひな型であり、我々の人間関係のひな型です。

そして「きくみるはなす円坐舞台」が進行していくと、円坐舞台の中で我々が生み出す喜怒哀楽、虚虚実実の「円坐舞台劇」がそのまま現代の世界情勢のひな型にもなっていることが見えてきます。

時には個人宅でも行う民衆の小さな集まりでしかない円坐舞台が、まさしく世界の縮図として、この現代社会の現実を正確に反映しています。


そしてひとつの円坐舞台が、過去の歴史も未来の可能性もひとつに含んだ人類全体の巨大な「人間関係」に、時空を超えて直結していることが見えてきます。


きくみるはなす円坐舞台は、波立つ水面を透過して底まで見えるようになる丸い水中メガネに例えることができます。


その水中の景色は、守人が刻限を宣言して成立した円坐舞台という切実な空間の中で、坐衆ひとりひとりの舞台への関わり方、姿勢、態度、所作、言葉、呼吸として具体的にあらわれます。


「今日の一日」がたとえ二十四時間しかなくても、我々の人生と世界の全体にとって絶対不可欠な「今日の一日」であるように、

小さな民家での二時間の円坐舞台は、我々の精神と心魂と肉体のすべてがそこにあらわれる絶対不可欠な二時間の「世界舞台」です。


こうして我々は生きている時間が限られていることを自覚した死すべき存在として円坐舞台に坐ります。


きくみるはなす円坐舞台は「限られた舞台空間」の中で、思うがまま自分の生と死を生きることができる「人間として生まれたことの奇跡と喜び」で出来ている舞台なのです。


円坐舞台守人が見つめるのは、人生という舞台に限界があるからこそ、思い通りにいかないからこそ、充実した生への意欲と喜びが沸き立つということ。


体が自由に動く時間はあっという間に過ぎ去り、必ず老い、必ず死なねばならないからこそ、生命を謳歌し、他者を愛する花々が咲き誇るということ。


限界と充実がひとつであること。


それは死すべき有限と永続する無限がひとつであるということです。死と愛が同じものであること。


それは私が死んで逝く闇と、愛する他者の命の輝きが、まったく同じものであるという水底の風景です。

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このたびの生駒石切円坐舞台守人十六番稽古は「円坐舞台守人である」ことの極北に向かいます。


そして世界の出来事のすべてと、人々の生き死にのすべてを天秤にのせて、初めて釣り合う究極的な面白さが円坐舞台であるということを高らかに謳い上げます。


稽古師範は有無ノ一坐の歴戦の四人です。個性の異なる四つの心魂が「悠」「久」「弘」「仁」の旗印を掲げて四色の「守人振り」を発揮し、四通りの切り口をもって皆様と対峙いたします。


悠久の地、生駒石切十六番稽古、円坐舞台守人仁義弘報の一戦。


各地で狼煙を上げる円坐舞台守人社中は、己れの旗印を白地に赤く染め抜いて馬上高く掲げ、今日一日の世界のありのままの現実を隅々まで余すところなく受け取り、対峙し、仕合い、凛として、そして優雅に前進して行きます。

有無ノ一坐 橋本久仁彦

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<十六番稽古日程>

第一回4月2,3日
第二回5月7,8日
第三回6月4,5日
第四回7月9,10日
第五回8月6,7日
第六回9月3,4日
第七回10月1,2日
第八回11月5,6日
(いずれも土曜日13時〜日曜日18時)

月一度2日間の宿泊集中稽古を8か月間続けます。

問合せ先 橋本久仁彦 enzabutai@bca.bai.ne.jp

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ご無沙汰しております。橋本悠です。
今年も生駒石切円坐舞台十六番稽古に守人スタッフとして参加します。

案内文を書いている今現在、私は29歳ですが産まれて初めて円坐に座ったのが26歳の頃、タイにちょうど誕生日に行った時です。

思えば四半世紀は円坐を知らず生きてきました。

26歳を跨いでから、最初の動機は父がどんな人物なのかを知る為に後をついて行き円坐に座り続けてきました。

しかし同時に最初の円坐を経験してからは毎日、円坐と言うものと自分自身と他人と関係性について考え出すようになりました。

恐らくそれ以前に舞台役者をしていたり映画や芸術が幼少期から大好きだった事もあって強く惹かれたのでしょうが、根本的に本質的な面白さに興味があり、本質的な面白さとは人間の関係性も密接に関わってくるので好きなんだと思います。

だから26歳で円坐を経験し29歳になって案内文を書いている3年経った今も同じ流れの事を考え続けながら書いています。

毎日常に考える事が苦でなくむしろ楽しいのはある意味病的だとも感じます。

私の場合一番大事なものがその本質的な面白さであり、それを実現するために無条件の肯定的尊重を成そうとしているので他の3人とは違った動きに見えるかもしれませんが、目指すところは同じです。

無条件の肯定的尊重とはなにか、本質的な面白さとはなにか、教えるのは非常に難しいですが、伝わる相手がいるのなら伝えたいと思っています。

今年も一年、宜しくお願いします。

有無ノ一坐 橋本悠

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言葉は、
どこから生まれてくるのだろうか?

家も、詩も、
この身も、物語も、
誰か個人の所有物なのでしょうか?

円坐で語られる言葉も、
本当にそうです。

言葉を発した個人のものではない、
と、円坐にて何度も思い知ります。

耳では聞こえない、
目に見えない、
わかんない、
と言い、

二者の間で、もしくは、
ほんの数人仲間に生まれた、
問いの言葉を簡単に捨てて、

何も考えずに楽しく生きるのは、
わたしは本当に人として狡いと、
思います。

わたしは、
ぼーっと、
生きるのではく、

もう一つの耳を澄まし、
もう一つの目をちゃんと開けたまま、
この寿命を生き切ります。

死んだら何処に行くのか、
知りませんが、

彼岸という場所に行くにあたって、
この世の仕事は、この世でやって、
あの世にいきたいと思っています。

その仕事のひとつが、
円坐守人の稽古です。

あの世に向かう、
この世の仕事です。

わたしはあの世でも、
ずっと会い続けますし、
あの世に行ったらあの世の、
やるべき彼岸の仕事があり、

人の中空で、
生きますので、
覚悟していただきたい。

さて春から、
石切稽古が始まります。

生駒山の頂きの向こうは、
奈良の都、大和の国です。

生まれてこの方大阪の人間として、
この風景に恥ない仕事をやるのみ、
です。

どうぞ宜しくお願い申し上げます。

「無題」

伊吹山に
会いに行くと

伊吹山にまなざされ
伊吹山が会いに来る

春の息吹に溶けた水
滔々と

足跡辿り
川を遡る

自分からい出て
人に会いにゆけ

頂きから
光の粒の

言葉ふりやまぬ
人の中空への旅

有無ノ一坐 松岡弘子

・・

話としては理解できるけど、納得はできていないまま、
納得ができていない自分にふたをして関わり続け、
働き続け、無理が積もって最後には離れる。
そんなことが身の回りに良く起こります。

円坐は、納得できるまで話す時間でもあります。
人はどこで納得するのでしょうか。
理屈や説明、共感的傾聴の中には納得はおそらくありません。

命を差し出されたとき
人は納得できるのではないかと思います。

命が差し出されているのかどうかは
言葉と態度から伝わってくる温度でわかります。

人がついていく人は、人に命を差し出す人です。
そしてひとたび命を差し出した人は、無敵になります。

相手からの圧力を前に、ときには指先が震えながらも
説明不可能な違和感や自分の感性を明け渡さずに対峙しつづけるには、どうすれば良いのでしょうか。

対峙とは、自分の命=感性を手放さずに相手に差し出し続けることです。

対峙は、知識として理解・習得できるものではなく、
人のふりを見ても、できるようにはなりません。

みずから実践することでしか至ることはできません。

わたしにとって円坐舞台守人稽古はそれを稽古するための場所です。

ご一緒しましょう。

有無ノ一坐 橋本仁美