「傾聴」を語る 橋本久仁彦×井上ウィマラ氏 対談

井上ウィマラ氏との対談にあたって思いがけず多くの方々に
視聴のお申込みをいただいて大変ありがたく思っております。

対談ではウィマラ氏と僕は、互いに友人としての即興でのやりとりになると
思いますので自己紹介に時間をとれません。

そこでここに一文を掲げ、有無ノ一坐の仕事と、その実践の様式である「円坐、
未二観、影舞縁坐舞台」を総称した「きくみるはなす円(縁)坐舞台」について
簡単にご紹介させて頂きたいと思います。

よろしければご参考になさってくださいませ。

ご挨拶。

橋本久仁彦と申します。
大阪にて、口承即興~円坐影舞「有無ノ一坐」を主宰しております。

ご縁を頂きましたので円坐舞台のご説明を兼ねて少しご挨拶を述べさせていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。

僕は、13歳の時に突然父を亡くして自分が生きている時間に終わりがあることを覚りました。
高校生の頃には、限られた時間しかない人生ならば「人間関係」ということを
探求したいと考えていました。

その後高校教師になって「教えない授業」と名付けた生徒中心の授業を10年間試み、
大学のカウンセラーになってからは心理療法としてのカウンセリングと
「非構成エンカウンターグループ」をやはり10年ほど行いました。

大学の仕事を辞してからは一人で「プレイバックシアタープロデュース」という
看板を掲げてカウンセリングやセラピーグループや口承即興劇の仕事を続けました。

その後集まってきた人たちと自他の境を見つめるフェンスワークスという任意団体を立ち上げ、
9年間の団体としての活動を経て解散しました。

「きくみるはなす縁坐舞台」という名称が確立したのはこのころでした。

今は生死を共にする少数名と「有無ノ一坐」という幟を立て、
「名残りの出稽古ドサ廻り」と朱書きして日本各地へ出向き、
人々と唯一無二の出来事を「生き合い」「祭り合う」円坐舞台を続けています。

僕がまだ大学生の時に、当時「来談者中心療法」と呼ばれていたカウンセリングの手法と
「非構成エンカウンターグループ」に出会いましたので、「きくみるはなす縁坐舞台」と名のる前は、
30年ほども非構成エンカウンターグループに携わったことになります。

僕自身の心境の変化もあって、エンカウンターグループではなく
「円坐」と名のるようになり、はっきりと仕事の質が変わってきました。

翻訳された多くの西洋の本を研究し、数百にのぼる関連ワークショップに参加したり
主催したりしながら様々な「セラピー」や「グループアプローチ」を一生懸命に消化吸収する中で、

逆に照らし返されて腑に落ちてきたのは、
結局自分がこの極東の島国に住む一人の日本人にしか過ぎないという当たり前の事実でした。

英語に対応した日本語ではなく、この島国の土着の口語、今目の前にいる「人の声」という
日本古来からの「ことば」で、ご縁ある他者との唯一無二の「間柄」を生きているのだという
自分の現実が初めて見えてきました。

その視界の中で「きくみるはなす円(縁)坐舞台」が命をもって形になったのだと思います。

カウンセリングもエンカウンターグループも、
「個人」と「個人」といういわば固くて分離した二つの存在が先にあって、
その二人の個人が「出会う」ためにワーク(心理作業)を行うのだという目的概念をもっています。

つまりあらかじめ前提する狙いとそのための枠組みがあるということで、
だから「メソッド」とか「技法」と呼ばれるのですね。

それらのメソッドや技法を使って実現したい、身に付けたい、
あるいは手に入れたい目的とされる既成の価値概念は、

「気づき」「成長」「自己実編」「本当の自分」「出会い」「美しさ」「健康」「生きがい」「お金」「仕事」

あるいは「主体性」「自主性」「効率的な人間関係(コミュニケーション)」「傾聴能力」「愛と信頼」
「悟り」「社会性」「平和」など
人生のほぼすべての目的と価値概念を網羅しています。

対して「きくみるはなす円(縁)坐舞台」は、
あらかじめこれらの価値を目指していないということが、
大きな特徴のひとつだと言えます。

この「あらかじめ価値を予期せず目指していない」という在り方は、
カウンセリングやセラピーのような人間科学的進化理論を基盤とする西洋的な人間観に対して、
日本的、東洋的な人間観が提示する根本的な違いでもあります。

「非構成エンカウンターグループ」は僕が生涯の仕事として専門的に実践してきた
グループメソッドですが、「きくみるはなす円(縁)坐舞台」の横に置いてみると
やはり大きな違いがあります。

それは「ファシリテーター」の存在とその働きです。

「非構成」を名のってもエンカウンターグループのファシリテーターには目的概念があります。
それは受容(無条件の肯定的尊重)・共感・自己一致と呼ばれるファシリテーターが身に付けるべき態度的三条件とその目的概念としての「自己実現」「成長」「出会い」等々です。

エンカウンターグループ創始者のカール・ロジャーズは「態度的」という言葉を使って
これらの態度が価値概念ではなく「人の生(ナマ)の実態」であることを示そうと努力しました。

その本質は理論化することが難しく、ロジャーズは老子の言葉を引用しています。

“The way to do is to be.” 「その方法とはただ在ることである」

ここからは僕が円坐舞台の現場経験から分節し名付けた言葉も用いて説明を試みます。

この「態度的」とは、人と人が向かい合って熱量が生じた「間」だけに生じる
「生きている間合い」のことです。

それは「個体」ではなく人と人の間を流動する生き生きとした「質的」なものです。

それは敢えて概念化しようとすれば、
「ふたりが真にふたりでいる場所そのもの」とか
「ふたりの一回きりのその時間そのもの」とかいうように
言葉を重ね、位相を重ねて圧を加えながら表現せざるをえないものです。

実際の舞台の現場では、その実質は透明な空間を常に動いて「うつりあう」ので
一つの概念、一つの意味に固定できないのです。

一般に「きくみるはなす円(縁)坐舞台」が成立している円坐舞台空間に
物理的に参加している人は、このような流動する「生きている間合い」を確認することができます。

物理的個体として互いに言葉を交わすコミュニケーションとは別の位相、
すなわち「生きている間合い」の中で、概念や価値認識を超えた
精神的な質の映りあい(移りあい)が「気づく意識」より先に起こっている事態が
観察できるということです。

そして形のない世界であるにもかかわらず全心身が呼応し、ふれあい、うつり、
うつしあっている「ふたり」の有り様を特に「相聞舞台」と呼んでいます。

我々人間の “to be” すなわち「在ることそのもの」は
「アイデンティティを持つ個人と個人」というようには区別して固定できない「実態」であって、
実はとても広大無辺な現象です。

ですので「アイデンティティを持つ個人」を超えた広大無辺な位相で人間をとらえようとすると、
通常の知的な固定概念では表現できなくなります。

この「表現できない」位相を表現するためにスピリチュアルな言葉や心理学用語や
宗教的な既成の専門用語が使われています。

これらの知的な概念言葉はほぼすべてインターネットで見ることができます。

しかし、ネット上では「活きている人の」「ナマの」「熱量のある」「出来事としての」
全体的な位相にはほとんどふれることができません。

インターネットの情報コミュニケーションとふたりの生身の人間の臨在、人間の現場に起こる実態は
位相が異なり、「次元」「界」が違っているからです。

不特定多数の「誰か」に向けられたこれらのネット上の概念言葉には、
PCの画面の電気信号程度の「実態」しかないと僕には思えますが、

全人生を懸けて続くような強度のある人間関係を生きることができなくなった現代人としての我々は、
ネットの電気信号を通じて関係する時間の方が、生身の他者に直接ふれる時間よりはるかに大きくなってしまった現実を生きているようです。

中学一年で父を亡くし、「死」について考えざるを得ない人生になった僕が、
主体的に関心を持ち、強く惹かれていたのは、

その人の手にふれることができて、目には見えない心の一番深い所でもその人に
実際にふれることができるような人間関係を生きることでした。

先日の石切円坐舞台守人稽古のクラスではそれを「人付き合い」と呼びました。

僕は「実態」としての人間になりたかった。
人間の実態として他者とともに強烈に在りたいと思い、
一生をかけるに足る人付き合いを生きたいと願ってきたのだと思います。

今、果たして自分がそういう人間になれたのか、そもそも人間とは何なのか、
知的には依然として不明なままですが、
今月六四歳になる自分自身の「実態」としては腹落ちし、腑に落ちる毎日になりました。

その落ちた場所に輪郭鮮やかに咲いていた蓮の花が「きくみるはなす円(縁)坐舞台」
その華を受け止める小さな器が「有無ノ一坐」です。

有無ノ一坐の仕事である「きくみるはなす円(縁)坐舞台」は、なによりも「人の実態」ですので、
「円坐舞台を分かりたい」ならば、我が身を運んで円坐舞台という人間の実態の一部になり、
ひとりの円坐坐衆となって全面的にそこに坐るしかありません。

ある時ある場所で起こった「円坐舞台」という実態の一部になって生きること。

「この円坐舞台における私の実態は今向かい合っているあなたとの間で刻々と生じている。
次の瞬間はどうなるかわからない。」

という舞台現場の事実だけが「実態の言語」として通用します。

ですので「きくみるはなす円(縁)坐舞台」とは、
究極的に私的で個人的な「人付き合い」を生きる、
自分自身のありのままの実態である、ということになります。

さて、井上ウィマラ氏によれば、マインドフルネスの起源は2,500年前のお釈迦様の
人間関係の在り方から来ているとのことです。

2,500年前のお釈迦様がまるでそこにいらっしゃるように描写する氏の基本的な立場は、
僕が長年身を置いて、やがて離れたセラピーの世界とは次元が違っているように見えます。

にもかかわらず現代を支配している物質科学の立場に果敢に身を寄せて、
仏陀の生きた息吹を注ぎ続けているその仕事振りを尊敬しています。

我々一坐もそれに恥じない名残りの出稽古ドサ廻りを死ぬまで続けて往く所存です。

一坐の松岡弘子から、有無ノ一坐の仕事のひとつである「ふるさと相聞茶堂」の案内文が届いています。

文中、82歳のお義母さまのお言葉は、我々が各地への名残りの出稽古ドサ廻りで
お目にかかったたくさんのご年配の方々のお言葉でもあります。

有無ノ一坐は「懐かしい他者」がそこに息づいておられる限り、
この世の果てまでも 「ただ会うために」 出かけて参りたいと思います。

有無ノ一坐  橋本久仁彦

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