ある稽古希望者への返信

Sさん、ご連絡ありがとうございました。
拝読させて頂きました。
では僕も少し自由に記してみますね。

円坐守人の稽古で最も大切にしていることは、
円坐の道の上に立たれるSさんがたとえどんな小さなことであっても、
守人に対して表現し、対峙する姿勢を尊重するということです。

「対峙」とは他者に真摯に向き合うこと。
そしてその結果として同時に自分自身への「向き合い」が起こることを指しています。

<色々な事が急で、罪悪感や葛藤や、
色んな思いや感情が整理ができない状況で、
今他者と深く関わることへの恐怖感があります。
ありのままで人と関わることに、不安があります>

Sさんの個人的なご事情や「いろんな思いや感情」は、
このたびの人生でSさんが果敢に引き受けるべき筋のものですから
僕は尊重しつつ立ち入りません。

<今他者と深く関わることへの恐怖感があります。
ありのままで人と関わることに、不安があります>

Sさんの御念頭にある「石切稽古」に絞って解像度を上げて考えてみましょう。
「深く」の意味が我々の意味合いとは異なっていると思われますが、今はそのままにしておきます。

石切稽古で「深く」関わることになる他者とは、
僕、橋本久仁彦と有無ノ一坐の橋本仁美、橋本悠、そして副坐長の松岡弘子です。
彼らとの間にはまだ事実として「恐怖感」は無いと思いますがいかがでしょうか。

この四名と「ありのままで関わること」による不安もまだ生じていないと思います。
未だ関わっていないからですね。
「ありのまま」とは実際に「関わること」が生じる前には
あらかじめ経験することができない生命現象です。

<自覚しているトラウマもそこにあるのですが、押し殺して生きたり、自分を責めることのなかで、
葛藤や不安をうまく扱いきれずに、破滅的な行いをして全部だめにしてしまうこともありました>


この文章はSさんが心理学やセラピーを学ばれて知識を身につけたので
可能になっている思考内容であり、ご自身を見ている見方ですね。

石切稽古における有無ノ一坐の円坐守人は「理論」や「治療法」を通してSさんを見ることはありません。
生身の自分の、生粋の精神として対峙します。
ですのでお互いに直接相手の精神的本質を体験する機会が生まれます。

有無ノ一坐の舞台芸能である「影舞」や「縁坐舞台」や「未二観」も同じで、
舞台上には人間の生粋の精神が現れます。
我々は「人間」という現象を根源的な芸術として見ています。

石切円坐守人十六番稽古とは
「現実の人間存在」を理論で理解せず、100パーセント自分自身で体験する稽古であると言えます。

<この間参加させていただいた円坐 のなかで、
他者とのかかわりの中で、自分のほんとうがフッと浮かぶ瞬間にあいました。
ずっと人が恐かったけれど、もっと人と語り合いたい。
人と関わりながら、自分の本当をみつめてみたい、そう思い、お問合せをしました>

具体的な生きている人間としてSさんの前に一年を通して存在することになる一坐の四人、
橋本仁美、橋本悠、松岡弘子、橋本久仁彦と、お互いに人間同士として全身と全霊で関わる
ということが石切稽古で経験することです。

「ずっと人が恐かった」Sさんが果たしてこの四人を恐がるのか、
もし恐がるとすればどんなふうに恐がるのか僕は大変関心があります。

<もっと人と語り合いたい>

有無ノ一坐の四人とは精神的な意味合いで、
家族や恋人に対するよりはるかに「もっと」「深く」語り合うことになります

<人と関わりながら、自分の本当をみつめてみたい>

石切では我々四人の守人が人間として生きている「本当」
我々の言葉で言えば「生き様」に触れることになります。
自分の「本当」は他人の「本当」と呼応して存在しています。

たとえば関わりのある誰かの「偽り」をそのままにし、眼をつむっておいて
自分だけがその人物との関わりにおいて「本当である」ことは不可能です。

「本当」を求めるSさんに対して我々ができる唯一のことは、
我々が今まで生きてきた「本当」を尽くしてSさんという
世界でたった一人の存在に真正面から出会い、関わり合いになるということだけです。

<抱えている葛藤は、自分の根っこの問題であり、
今だからこそ、参加する必要があるのではないかという思い>



葛藤の分析や自分自身の存在だけに関心がある場合は、
石切の円坐稽古ではなく種々のセラピーや精神分析が目的にかなうと思います。

石切円坐守人十六番稽古の特徴は、
「有無ノ一坐」を名のる四人の人間や円坐に坐る坐衆方に直接的に関わり、
対峙し、仕合い、出会う経験をすることです。

我々はSさんの「抱えている葛藤」や「自分の根っこの問題」という、
Sさんが外から得た知識を組み合わせて作り上げ、頼りにしておられる「信念」を、
尊重はしますが影響は受けず、Sさんと我々の「本当」に向かいます。

<今の状況で、気持ちが落ち着かないままに、円坐の稽古に身を置いた時に、
現在の自分の葛藤から目を背けて逃避することになるのではないか、
もっと時間を置いて、落ち着いてから参加をしたほうがいいのではないか。
そんな思いで迷っています>

円坐はいつでも未知で、「ありのまま」ですから
我々一坐にとっても常に「気持ちが落ち着かないままに」始まる舞台です。

<現在の自分の葛藤から目を背けて逃避することになるのではないか>

もしSさんが、Sさんの目の前に「現在」している我々四人を「本当に」経験することができるなら
常に新しく「本当」になり続けて止まない自分、
生き生きと動き続ける「動きそのもの」としての自分と出逢います。
その「常に新しい自分」と出逢った時、
古い自分が自分だと思っていた「自分の葛藤」は存在しないことが分かります。

その代わりに非常に生き生きとして輪郭鮮やかな「他者」と「世界」が初めて存在するようになります。
「僕の人生に初めて人が入ってきた!!」
と驚きとともに叫ばれた方がいます。

それは今まで知っていたつもりの「他者」とはまったく違う
「本当に生きている他者」の存在に目覚めた喜びの声でした。

<現在の自分の葛藤から目を背けて逃避することになるのではないか>

Sさんが「現在の自分の葛藤」を作り出しそれを「現実だ」と信じて従属した時点で、
「自分のほんとうがフッと浮かぶ瞬間」から目を背けて逃避することになります。
我々に稽古が必要なのは、現代では多くの人々が、
逃避することを「自分に向き合う」ことだとまったく正反対の方向で誤解しているからです。

有無ノ一坐が石切で円坐守人の稽古の場を開催しているのは、
そのような社会状況に問題意識をもっているからでもあります。
さて僕も思いつくまま記しましたが、今はここまでといたしましょう。

僕や一坐の者にとって「人間関係」とは、人生最大の謎であり、
これ以上面白いものはない大冒険の旅路です。

Sさんとのこのやりとりで、我々有無ノ一坐が日々感じている面白さのほんの一端でも
直観していただけたとしたら、僕としては本望です。

口承即興円坐影舞 有無ノ一坐 
坐長 橋本久仁彦

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