2023年度円坐守人十六番稽古生駒石切

2023年度の生駒石切円坐守人十六番稽古はお陰様で開催決定となりました。
2月から一年間にわたって、皆様との稽古を共に生きる有無ノ一坐守人衆から、ご挨拶の言葉が届きましたのでここに掲げます。

現在「円坐守人」であることを生業とし、生涯の職業としている者は、
この世界では有無ノ一坐の四名だけであると思います。

僕と副坐長の松岡弘子は、一昨日は千葉の「成田の空、円坐舞台」、
昨日は東京での「板橋宿往来円坐」で円坐舞台守人としての仕事を果たし
成田空港からの最終便で大阪に戻りました。

今日は一坐の橋本仁美と橋本悠が、東京姉弟円坐と個人セッションを行うために東京へ向かいました。
僕は千葉と東京ですでに終えた「円坐舞台」での経験を話しながら駅まで見送りました。

円坐にはあらかじめ準備する方法論やメソッドがありませんので、
「自分は円坐に坐った方々とどのように対峙し、仕合い、生きたか」ということを常に語り合います。
円坐守人にとって円坐とは、他者と自己を直接体験するもう一つの感覚器官です。
それはこの世界を直接体験する新しい感覚器官、もしくは運動器官であると言えます。

我々円坐守人は、眼で見、耳で聞き、手で触れ、円坐で生きて存在します。
我々の人間関係そのものがひとつの「存在の舞台」に転じる「円坐舞台」。

この新しい精神芸能の本質は、一つの全体的な「世界体験」です。
その世界体験はどなたでも体験可能です。

ただし、これは純粋な存在芸能ですので自分自身で直接体験する必要があります。
この体験の前後で我々の感受性は刷新されますので、

それまで説明が困難であった「円坐」や「円坐舞台」の体験について、
どのようにでも説明し、好きなように表現することができるようになります。

あるいは説明や表現をする必要がまったくなくなります。
円坐守人は、円坐を説明する必要が生じた時に、矛盾しているように見える言葉使いを恐れません。

守人その人の態度やあり方が直接円坐の本質を指し示しているからです。
円坐の本質とは、坐衆の方々や円坐守人の生きる姿勢そのもののことです。

円坐舞台の特徴である生き生きとした直接性は、
我々の生きる姿勢と態度がそのまま「舞台」になることから生まれています。

今までそれを信じて生きてきた価値観や生き様が「他者」と音を立てて交差すると、
うそのない音が鳴り、見せかけではない華が咲きます。

この「交差」ということ、言葉を交わし、情を交わし、命を交わすということを、
我々は「仕合う」と呼んでいます。

それは物心ついて以来作り上げ、慣れ親しんだ「自分の中」から初めて外に出て、
未知の他者との間に広がる色の無い土地へ向かって思い切り体重かけて踏み込むこと。

その踏み込みをずっと待っていた「他者と世界」が、わたしの「重み」に応えて
次々に花を咲かせる緑の小道を、一歩一歩「あなた」に向かって歩いて往く態度のことです。

「練習」ではなく、常に人生の本番仕合いである「守人稽古」によってこの態度が根付くと、
そこに新しい感覚器官が花開きます。

それはとうとう一度も咲かずに種やつぼみのまま終わろうとしていた名もない草花が、
慈雨を得て一気に芽吹き花開く「晴れ姿」に似ています。

わたしという名もなき草花の本当の名前は、
その花の美しさを外側から経験する「他者」が感じ取ってくださる言葉の中にあります。

「わたし」の本当の名前を「あなた」が語るという深い真実。
自分の中で感じたり考えたりしている世界と、自分から出て感じ、考える世界は

180度異なる世界体験になります。
外側から見れば同じ人間ですが、内側で体験している世界法則が逆転しています。

この出来事を我々は「時空の反転」とか「存在の転回」と呼んでいます。
有無ノ一坐の「有無」とはこの世の価値が回転する動きのこと。

「一」とはぐるっと回ってまったく違う世界で呼吸し、また同じ外見に落ち着く「一」。
「坐」とは、この厳しい現代世界へ向かって体重を傾け、仲間とともに歩き出した我ら円坐衆のことです。

口承即興円坐影舞 有無ノ一坐
坐長 橋本久仁彦

円坐とはただ人間関係を行い、そうすることで見えてくる自分という人間のこと、
その場にいないが出てきてしまうほど想っている他者と自分との繋がり、
そして今自分が歩いている道などを正しく認識する事だと思っています。

この場合の正しさとは自分の中で気持ちよく一致したかどうかではなく、
自分をこの世に存在させてくれる他者の認知の純度のことです。

人間関係、繋がりや絆というものは遊びでも仕事でも生活でも、
ほぼ全員が貪欲に欲しているものだと思っています。
しかしその大変さから忌諱しがちなものでもある様です。

さらにそういった事を上手く認識し探し求め近づけたとしても、
近づき過ぎると今度は見えにくくなっていき今何に触れているかを忘れてしまう様です。
人間や他人の事をわかってもいないのに慣れ始めてしまうからでしょうか。

僕はこれを人間に近づきすぎるという言い方でよく表現しますが、
自分達は人間ですが素直に人間をやりすぎるとあやふやに生きていきそうになり、
今自分が何をしてるか何もわからなくなる様です。

肉体的にも精神的にも、合わせて人間性を保ったまま生きていくにはどうすれば良いかを日々考えています。
僕が守人をする円坐ではそういったものを目指します。

それでは今年、よろしくお願いします。

口承即興円坐影舞 有無ノ一坐
橋本悠

私にとって人間関係は音楽です。
人は楽器です。

みんな違う楽器のはずなのに同じ音が鳴っているのはつまらないし、
他の音にかき消えそうになっている音があったら、
消えそうになっているその音を聞きにいきます。

人権とか、尊重することとかにはあまり興味がなくて、
わかりあっていなくても、対応する音が鳴り響いているのであれば
それで面白いと思っています。

沈黙も音楽です。
沈黙のときはとくに全員の音が鳴っています。

誰かが話している音を聴くとき、発せられた言葉のもつ意味や情報に惑わされて
音が聴けなくなってしまわないようにすることが肝心です。

一見聞こえが良く綺麗な音でも、
それがその人の音ではないときは音色を聴いていたらわかります。
ドスの効いた音でも、ずれそうな音でも、
その人からの十全な音ならば聴いていて心地の良いものです。

その心地よさはときには迫力だったり
鳥肌がたつものだったりします。

そのときに自分が怒られているような状況だったとしても
良い音聴いた〜と思ってしまいます。

言葉を理解し合うのではなく演奏しています。
善悪のくびきからも離れて自由にもなれて
円坐という舞台のうえで丁々発止の音が鳴っていくとき、
ジャズのソロがだんだん盛り上がって絶頂にいくときと同じように楽しいです。

生駒石切守人十六番稽古でもそんなふうにいきたいです。
どうぞよろしくおねがいします。

口承即興円坐影舞 有無ノ一坐
橋本仁美

円坐守人稽古が二月より始まります。

それは、楽しみというよりも、
背筋が伸びる時でもあります。

なぜかというと自分は、
対人援助の専門家でも教師でもなく、
ただの「松岡弘子」という人間だからです。

けれども、
どうにもその範疇にはおさまりません。

母性や、女性性や、
人間性とか云々かんぬん言いながら、

責任しょって自己完結しようとして、
なぜ後悔する人が多いのでしょう?
正直言うとわたしにはわかりません。

それは、役割のせいなのでしょうか?
他者と自分を比較してるからなのか?

それとも、
居場所の取り合いをしてるだけなのでしょうか。

自分の人生を生きられないって、
一体、どういう事なのでしょう。

論理が破綻し矛盾していること、
それがなぜいけないのでしょう。

人に会い人と関わるのは一見面倒ですが、
実際本当に会ってふれないとわりません。

わたしは、
無言の圧力や、影の存在に押されて、

遠慮し過ぎて、
肝心な人に関われない事があると、

その時は本当に凹んでしまいます。
内なる刃を研ぐのは、そんな時です。
自分ひとりでは研ぐ事もできません。

そんな時は必ず
信頼している仲間と関わり続けます。

知らず知らず、
関わりが砥石となり切っ尖は研がれ、
燃える焔の中で刃に焼きが入ります。

全然関係の無い人に、
悩みだけ聞いてもらうと、
なぜか腕も鈍り、切れ味も悪くなります。

話したら即通じてしまうのが本当なのに、
関係の断絶した人に話を聞いてもらうと、
いきいきした精神が、腐ってしまいます。

その点、有無ノ一坐の円坐は面白いです。
今回の石切稽古会は、
自我の範疇を超えて、実際に会い、
本当に関わって、対峙し、仕合う、
有無ノ一坐漬けの一年になります。

「生駒石切円坐守人十六番稽古」
皆様のご縁をお待ちしております。

口承即興円坐影舞 有無ノ一坐
松岡弘子


<2023年度円坐守人十六番稽古生駒石切会場日程>

①2月26日
②3月26日
③4月23日
④5月28日
⑤6月25日
⑥7月23日
⑦8月27日
⑧9月10日
⑨10月22日
⑩11月19日
⑪12月17日
⑫2024年1月28日

いずれも日曜10時~18時
会場での前泊可(夕食付)

お申込みお問合せは橋本久仁彦までご一報くださいませ。
連絡先 enzabutai@bca.bai.ne.jp