生駒石切円坐守人十六番稽古2024

開催直前、生駒石切円坐守人十六番稽古2024のご案内はこちらからどうぞ

ここ数年、「私も円坐や影舞を地元で行いたいが『資格』ってあるんですか」
というお声を頂くようになりました。
行政の方から商標登録やコピーライトを取得するように
強く勧めて頂いたこともあります。

「円坐」や「円坐守人」「未二観」「影舞」は、
僕が中学一年の時に父親を亡くした経験から
人生の核心は「死と人間関係」だと思い定めて
探求してきた半世紀の人生が結晶した精神的な実体です。

この実体がはっきりした「人生芸能」の形になるためには、
有無ノ一坐の四名の人生を賭けた協同が必要でした。

人生芸能としての「口承即興円坐影舞未二観・有無ノ一坐」を体現し、
日夜思考を継続し、実践と現場での挑戦が日常となった人間が、
橋本久仁彦、松岡弘子、橋本仁美、橋本悠の四名です。

人生芸能としての口承即興円坐影舞未二観(円影未二の芸能)は、
他に類を見ないまったく新しい理念であると思います。

「人生芸能」とは、人と人の生々しい関わり合いがそのまま芸能・芸術であるような
時空間のことで、その時空間を立ち上げ、守るのが円坐守人の仕事です。

「人生芸能者」としての「円坐守人であること」は、有無ノ一坐四名の
それぞれの人格に宿る炎のような生きた実体であり生き様そのものですので、
意図的に他者に伝達することは難しいと思います。

しかし、一定期間、有無ノ一坐の赤裸々な人間性と個人的で真剣な関わりを継続した時、
その炎が「燃え移る」ことがあります。
機が熟した時に、志願者の体内に「円坐守人であること」が発火する瞬間が訪れるのです。

「円坐守人であること」がその志願者に正しく伝達されたかどうかは、
円坐における関わり合いの姿によって明らかに判断することができます。
この伝達と判断を、過去の実績に基づいて与えられる「修了資格」や「卒業資格」と区別して、
「態度資格」もしくは「創造資格」と表現したいと思います。

円坐守人は円坐における態度と行動を通して、
その都度、瞬間ごとに「円坐守人であること」の生きた資格を創造し、体現し続けるからです。

体現された「円坐守人であること」は、日々新しく円坐舞台を創造する
円坐守人だけが理解し、判断することができます。

その理解と判断は「過去の情報を編集する人工知能的知性」ではなく
「突然やって来る創造の炎と熱」でできているからです。

こうして、円坐守人が仕事をする円坐舞台の時間と空間は、
常に情報編集し操作的に関わろうとする現代人の強迫性を離れ、
おのずから広々とした精神の自由、独立、自治の風土へと向かいます。
円坐の特徴は、円坐を置いた場所や土地に自由と独立と自治の空間が開き始めることです。

ですので、円坐に参加せず関心もない第三者から商標登録やコピーライトなどの
「権利をもらって」円坐や影舞の「権益」を守るという考えは
円坐の温かさの中で消えてしまいます。

円坐や影舞の価値と風土はその土地の円坐守人が直接守ります。

コピーライトとは円坐影舞の名称や用語だけを剽窃するような行為を予防する
法的処置ですが、円坐守人は剽窃する個人と直接対峙し、生きた関係芸能を創造します。

円坐舞台の態度的用語である「対峙」と「仕合い」は円坐の外側の社会に向かった時に
都合よく麻痺するわけではありません。

円坐舞台は、それを目的としているわけではないのに、
副産物として円坐の中に自由と独立自治と創造性の風土が立ち上がる人生芸能ですが、

それは同時に円坐の外部社会に対して円坐の自由と創造性を守るために表現し、
作品を提示し、対峙する人生芸能でもあります。

円坐守人や未二観舞台の守人が実施時間を厳格に舞台結界するのは、
時間内の創造性を確保し、時間外に押し寄せる情報世界と区別する必要があるからです。

これは円坐の現場を重ねることによってのみ体験として明らかになることですが、
円坐の「円」とは反転・裏返りを通じて内外一つであるということ、
すなわち円坐は実は「世界円坐」という「一つの円」でしかありえないということです。

ここで初めて円坐と縁坐という二つの言葉が一つに融けて「きくみるはなす縁坐舞台」となり、
存在の有無の矛盾も一つの円に融けて「有無ノ一坐」となる由緒由来がわかります。

疫病や戦争、民主主義の破綻、そしてAIによる情報操作の時代に生きてなお人間であるために、

生きた人間の直接性と当事者性そのものである「円坐影舞」や「守人」の世界を
求めてくださる方々が「私も円坐や影舞を地元でやりたい」とおっしゃってくださることを、
有無ノ一坐は大変ありがたく、うれしく思っています。

円坐影舞の風土を一つの時間芸能、空間芸能として創造する
まったく新しい人生態度を自分自身の中に点火する唯一の可能性は、
生駒石切円坐守人十六番稽古に参加することで開かれます。

毎月一度、一年間にわたる通し稽古を完了して円坐舞台の風光を垣間見、
さらに円坐舞台の道の奥に向かって稽古の足取りを強める方々に対し、
有無ノ一坐はその熱意と勇敢な態度を讃えて一坐の光栄とし、心より御礼を申し上げます。

その上で、我々一坐四名が人生を賭して悔いなしとする円坐舞台芸能の道行きを
共に歩いてくださいますように、謹んでお願いを申し上げに参ります。

現在、円坐影舞の名のりを挙げて日本の各地で活動を開始しておられる円坐守人は、
有無ノ一坐がその方々の在所へ参上し、円坐舞台の立ち上げをお願い申し上げ、
聞き届けていただいた「円坐影舞守人連中」の方々です。

有無ノ一坐と並んで新たに立ち上がる日本各地の口承即興円坐舞台の旗揚げを
一坐一同伏して祝賀申し上げます。

来年2月より「生駒石切円坐守人十六番稽古2024」が始まります。
お気持ちのある方は有無ノ一坐 橋本久仁彦までお問合せくださいませ。

口承即興円坐影舞未二観 
有無ノ一坐 橋本久仁彦

<生駒石切円坐守人十六番稽古2024>

【日程】

一番稽古 2024年2月18日

二番稽古      3月17日

三番稽古      4月21日

四番稽古      5月19日

五番稽古      6月16日

六番稽古      7月21日

七番稽古      8月18日

八番稽古       9月8日

九番稽古     10月20日

十番稽古     11月17日

十一番稽古    12月15日

十二番稽古 2025年1月19日

■十三番から16番は個人稽古
■いずれも日曜日10時~18時
■会場:東大阪市石切町の民家

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自分の思い通りにならないことがあると、突然キレたり、
苛立ちや嫌悪を感じて自分のなかだけで肥大させた感情に酔い、
勝手に結論を出し一方的に対話や会話も断ち切って無視し始める。
同時に、相手が悪い、おかしい人だ、わかんない!と決めつけてレッテルを貼る。

そのような自動運転になった思考で相手の前から去る前に、
踏みとどまって相手の言葉を聞き、相手を見て、相手と話すという一歩が大事で、
その相手との対話が、そのまま自分との対話となり、
大事な人間関係に大きな影響を与えることになります。

それが、相手と向き合い、更に、自分と向き合う、ということになります。
嫌な相手から逃げるのは勝手ですが、都合のいい人とだけ関わるという、
狭い人間観で生きるということがどういう事なのか、
他者と深く関わって考えるいい機会にもなります。

いじめや虐待は、そういったレッテル思考によって、
自分は良い事をしているという正当性を盾にして加速します。

人間関係の現場において非常に精密に観ていく必要があり、
いい人そうだとか、きっと良くない人だろう、というイメージで
判断し現実化すると、更にそういった状況が温床となり、
自動操縦思考は、自らの手を汚さずに、精神的な殺人を決行します。

円坐では、そういった一見良い人だったり、可愛らしかったり、
優しそうな人だったり、被害者の人だったり、人格者のふりした人などから、
なぜか、本人には意識できないような無象有象のものや、
非常に巧妙に人のエネルギーを吸う鬼が出歩きます。

円坐守人とは、ご縁を大切にし、この世の鬼たちと戦う者であり、
自分の中の最も醜く弱い己を破壊し闘う者であり
「創造=破壊(Creative Destruction)」の精神で前進する者である、
という観点で、わたしは今年度の稽古を担います。よろしくお願いいたします。

有無ノ一坐 松岡弘子

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「人が関わる」ということそれ自体を、被害的にうけとる。
相手の言動によって「傷ついた、傷つけられた、怖い」という立ち位置に入る。

当の相手側も、その態度をみて「言い過ぎてしまったかな」とか
「この人は、もしかしたらこうなのかな、ああなのかな」とおもんぱかり、

そもそもは筋の通らないことをされているのが事の発端だったはずなのに
「傷ついている」という理由から、筋の通らなさは棚上げにしてしまって
これ以上関わると相手を「傷つけるんじゃないか」と考え追及の手を緩める。

こんなやりとりや関係性が現代日本には横行してしまっているので、
誰も筋の通ったことを言えなくなっています。
これも脅しの一種です。

筋の通ったことを言おうとすると、それを封じ込めるために
一昔前は高圧的な態度や実際的な暴力で脅され
ねじ伏せられるということが行われていましたが

今は逆に被害者の立場、弱者になって
その弱者が「傷つけられた、怖い」を盾にし
周りを都合よく振り回すという、逆の脅しです。

本当に傷ついた人や怖がっている人がそんなに力強く周りを振り回したり、
理路整然と自分の状況を説明することができるでしょうか。

口では「怯えている」とか「怖い」という
言葉はいくらでも言えます。
人は演じることができる、ということを
人々は忘れています。

あるいは、それを見ないようにしたほうが
その人にとっても都合が良いのか。

相手のことを信じようとするのも良いですが、
その前に、その人の言動が信じるに値するのかを
見極めるのは必須の作業でしょう。

よくよく突き詰めて考えれば相手のことを
ほとんど何も分かっておらずまともに関わってもいないのに
その人のことを信じる、というのはあまりに浅はかすぎます。

筋が通らないことに対して
感傷的な行動と筋をずらした理屈で言い返し言いくるめ、
都合の良いように環境設定してくるのが現代の暴力です。

ここに対抗するためには、「傷ついた・傷つけた」
という関係性の論理や態度を突破し
話をずらされ煙に巻かれた筋を再び元に戻す
足腰をつけねばなりません。

この論理と態度がどんなときに発動し
どのように展開してまわりに通用するまでになっていくのか、
どうしたらこの暴力から脱し
筋の通ったやり取りに向かえるのか。

それが起こった現場に何度も立ち戻り
言動を辿りなおすことによって、
そこに対抗できる足腰と人間関係を
見極める視力を身につけることができます。

一年かけて互いに稽古・研鑽していきましょう。
石切の稽古場でお待ちしています。

有無ノ一坐 橋本仁美

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明けましておめでとうございます。
新年から地震や事故など不穏なことの連続ですが、
そういった不安や逆境に負けず今年一年もどうかよろしくお願いします。

石切円坐守人稽古では円坐という無条件の場において
守人が何を見てどこを目指しているかということや、
1年間の長期の円坐でご自身の対人関係やコミュニケーションの
一番原始的な部分を注意深く観察していき
意識と肉体と状況との一致(自己一致)を目指していきます。

自己一致をすることで現在行き詰まっている対人関係の進め方や考え方、
過去の思い出したくないトラウマへの触れ方、
コミュニケーションへの苦手意識の払拭ができます。

対人関係への経験値や物事の正確な捉え方などを
リアルタイムで繰り返し追求していくのが円坐ですが、
物質的な成果や成功を納めるものではないので
哲学的で日常の役に立たないと思われるかもしれません。
しかしただ働き続けて何も問わず生きていくだけというのも
健全だとは思えません。

円坐の成果とは何かを強いて答えるなら、
その人の日常生活と自分自身の内面との乖離を自分で見つけ
自分の意思でそのバランスを取り戻す行為だと思っています。

バランスを取り戻した後は自分の行きたい場所ややりたい事が明確になり
自分に嘘のない取捨選択ができる様になるので、
今回の円坐ではそこが一つの着地点になると思います。

自分という人間は一体何者なのか
これからどう生きていきたがっているのか、
世の中に不思議は多々あれど世界の一番の謎は
自分自身だと思うので
他人の力も借りながら一緒に追求していきましょう。

有無ノ一坐 橋本悠

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