「逢阪千代崎千夜十二夜 聞く稽古」

先日ふと思い立ち、縁坐舞台の稽古でもお世話になっています福井の若州一滴文庫車いす劇場での若州人形座の水上勉原作「越前竹人形」公演を観に行きました。

昔から阿波人形浄瑠璃には親しみがありどこか通ずる世界観もありつつ同時に新しい伊吹を感じる舞台でもありました。
借景となる車いす劇場の背景の竹林は、竹人形の舞台に深い深い奥行きを与え、想像を遥かに越えていました。

 存在を聞く、
 生きとし生けるものとは、
 いったい誰のことであり、

 聞こえてくる、
 ありとしあらゆるものは、
 誰のおとなのでしょうか。

わたしは清野友義さんのご紹介で当時五歳だった息子を連れて水上勉氏の帰雁忌へ初めて一滴文庫を訪れました。
劇場に着くと、息子と折り鶴を折ったことを鮮明に思い出しました。

清野友義さんには事前に窪島誠一郎氏も来られるとお聞きしていたのですが、舞台の端っこにぽつんと佇む窪島さんの姿と背景の竹林がなぜか焼きついてしまいました。

あれから20年。
窪島誠一郎さんだけではなく、水上勉さんの世界にもふれ始め父と子の世界がひろがり始めました。きっかけは今回の越前竹人形の舞台公演でした。

それでは「逢坂千代崎千夜十二夜聞く稽古」ご一緒しませんか。

有無ノ一坐 松岡弘子


<逢坂千代崎 千夜十二夜 聞く稽古>

未ニ観門前稽古 逢坂千代崎 千夜十二夜『聞く稽古』

皆様、初めまして。 私たちは「口承即興円坐影舞 有無ノ一坐」という「かかわりあいの芸能」の一坐です。「口承即興円坐影舞 有無ノ一坐」は、「円坐守人」を生業とし、…


 日時 : 毎月土曜日19:15〜21:30
 会費 : 各回 6,000円
 会場 : 大阪市西区千代崎
 守人 : 橋本久仁彦 松岡弘子
 申込 :enzabutai@bca.bai.ne.jp
 

『聞く稽古』 では 〜 

自分が今どんな影響を及ぼしているかについて客観的視点と舞台空間で稽古します。
【 第一回 】 「聞く」態度に意識的になる
【 第二回】 自分の「聞く」態度について知る

参加者同士で、聞く態度による相手からの反応やふりかえりを通じて影響を知ります。
【 第三回 】 相手の「聞く」姿勢を考える
【 第四回 】 相手と「聞く」姿勢を考える

舞台上で向き合い、八分ずつ、相手の言葉の「てにをは」まで「聞く」実践 です。
【 第五回 】 存在を「聞く」稽古をします
【 第六回 】 間合いや周囲の音も「聞く」

録音した音源にもとづいて逐語記録を作成し、レビューする「聞く」稽古です。
【 第七回 】 空間になって「聞く」
【 第八回 】 「聞く」と時間になる

八分間の相聞舞台をその場でレビューする「聞く」稽古です。
【 第九回 】 相互に影響しあうお互いの背景
【 第十回 】 レビューとインタビューの相違

向き合った相手の存在と言葉に丁寧にふれあうと、背景や周囲の音とも関わりあう円坐舞台になります。
【 第十一回 】 向き合って、ふれて話すことは聞くこと
です
【 第十二回 】 ふれあう言葉の先に、未知の花咲く円坐舞台

・・・

皆様、初めまして。

我々は「口承即興円坐影舞 有無ノ一坐」という「かかわりあいの芸能」の一坐です。

「口承即興円坐影舞 有無ノ一坐」は、「円坐守人」を生業とし、日本全国津々浦々をドサ廻りさせていただいています。

円坐守人とは、円坐の現場を創造する「かかわりあいの芸能者」のことです。

円坐の現場とは、「巡り合った人間同士がかかわりあって自分自身を誠実に生きる人生舞台」のことです。

「口承即興」とは「生きた人間の言葉を聞くこと」で、聞いたとたんに「即あらわれる命のかかわりあい」のことです。

我々円坐守人にとって「人の言葉を聞く」とは、「あなたが絶対確実にすでに目の前に存在している」という「かかわりあい」のことです。

「聞く」という行為には常に「あなたが絶対確実にすでに目の前に存在している」という「かかわりあい」が先行しています。

本当に心を込めて繰り返し申し上げますが、「聞く」とは真っ先に「絶対確実にすでに目の前に存在しているあなたとわたしのかかわりあい」のことなのです。

ですから聞く相手であるあなたがそこにいないなら「聞くというかかわりあい」はありません。

一般に「傾聴」や「聞き方」や「対話」「ダイアローグ」「リスニング」「ファシリテーション」と言った用語が使われるとき、そこに「絶対確実にすでに目の前に存在しているあなた」はいません。

ゆえにそれらの用語の中に「あなたを聞く」という「かかわりあい」はありません。

それらは操作可能になった物質的な概念の名称であって、「人間関係の取り扱い説明書」に記載されている情報用語です。

生きた人間関係を概念化し、記号化し、操作可能な対象物に置き換えた「取り扱い説明書」の中に、「絶対確実にすでに目の前に存在しているあなた」はいませんし、「あなたとわたしのかかわりあい」もありません。

我々が「人間関係の取り扱い説明書」を学び、用語の知識にもとづいてワークし、エクササイズし、スキルアップすると、「かかわりあい」ではなく物質的な「人間関係の取り扱い方」に熟練していきます。

物質的な人間関係を取り扱う専門家は「ワーカー」「ファシリテーター」「ティーチャー」「カウンセラー」「セラピスト」「コーチ」等たくさんの名称を持っています。

これらの人々が対人関係を取り扱う態度には顕著な特徴があります。

誰に対しても平等で均質的な態度であること。
誰に対しても伝わりやすい同質的な感情表明ができること。
誰に対しても分かりやすく概念化し、図式化できること。
誰に対しても共感し、肯定し、自己実現を促進できること。

「人間関係の専門家」の物質的、機械的、没個性的な関わり方や態度は、科学的なプログラムに基づいたワークやトレーニングによって「誰にでも身に付けられる能力」であると宣伝されています。

彼らの仕事は、「過去の成績や実績から計算されたプログラムに基づいて傾聴や共感を施しファシリテート(促進)すれば、誰にとっても望ましい生産的な結果が出力される」という学習されたアルゴリズム(入力)によって支えられています。

そしてそれらの仕事は、過去の情報に基づく操作可能な対人関係の手続きであるため、AI(人工知能)によって順次置き換えが進んでいます。

現代社会の中枢部ではすでに企画開発、事業、生産などの会議や調整をAIが能率的に遂行しています。

ワクチン開発や医療全般、社会福祉、産業、経済の諸分野でもAIのプログラムへの置き換えが進んでおり、最近では日常的、個人的な人間関係の機械化も成立しています。

例えば「ベッドから動けない障害者のため」という「誰に対しても分かりやすい理由」のもとに、遠隔でアバターと呼ばれる別人格を操作して、自分の思い通りの対人関係を別の場所に構築する機械的プログラムやシステムがすでに機能しています。

もし我々の精神が健康で全体的な人間であるならば、自分が人間関係において人工的なプログラムの対象物にされ、操作され、取り扱われているとき、不満や怒りを感じます。

それは自分が「モノとして、対象物として部品や機械のように扱われて生きている」と感じるからです。

しかし19世紀以降、我々人類は唯物論的信念を強化し、物質科学的情報による再構成を繰り返して、物質的に無限に豊かになりたいという巨大な社会的欲求にもとづいた発展を続けてきました。

そしてこの200年間の物質文化の急激な発展とともに、人間としての我々自身も自ら物質化しました。

そのため、21世紀の現代社会の人間関係では
人間として直接向き合うことを避けて苦痛を感じなくしたり、
人とかかわりあった事実を無かったことにして記憶から消去したり、
人間の感情にポジティブやネガティブといった物理用語を当てはめて差別化し、コントロールするということが心理的テクニックやワークを用いて積極的に行われるようになりました。

教育や医療、福祉の現場でも、煩わしく非効率な「生身の人間同士のかかわりあい」を「プロセス化」し、機械的な技法やファシリテーションによって無駄をカットし、目的に合わせて促進するといった実践が現れています。

このような人工知能とテクノロジーの時代と社会の現実の中で、「口承即興円坐影舞 有無ノ一坐」はあえて、まだ生きている全体的な人間たちを代表して名のりを挙げてみたいと思います。

「人間が話す」「人間が聞く」ということは、愛や友情や花や風と同じで、部分に切り離してしまうと消えてしまう全体的な「かかわりあうひとつの生命」です。

この全体的な「生命とかかわりあう態度」への認識と確信は、「客観的なデータ」や「繰り返されるワーク」の中からは生まれることができません。

それらは部分的な過去のデータや機械的行為の直線的な集積にすぎず、「部分の集まりは全体ではない」からです。

我々円坐守人にとって初めてお会いする皆様がすでに「懐かしい」のは、円坐という全体的な「かかわりあう曲線の時間」の中で皆様の言葉を聞くからです。

円坐守人は、常に現在に生きて流動する曲線的な時間の中で活動しています。

それは「過去と未来」や「データと予測」といった直線的時間と直線的思考にはもとづかず、全面的な未知の時間の中で仕事をするということです。

「円坐に坐る」とは、「全面的な未知の時間につながる」ということです。
そこでの時間は直線には流れず、いわば球体となって360度あらゆる方向から突然やって来るので予測することは不可能です。。

そのため「円坐」「刻限」「対峙」「仕合」といった有無ノ一坐の舞台言語とその精神は、直線的な時間の因果関係を用いて予測的に分かりやすく説明する直線的思考の世界とは断絶しています。

円坐の現場でリアルタイムに生まれる「全体的な球体の言語」は、円坐や球体の時空間を離れれば直ちに死んでしまう「全体に土着したことば」なので、知識に頼って直線的に早く分かりたい人々のための本や解説書に載せることができません。

かといって、「誰にでも分かりやすくする」ために円坐を部分や要素に裁断して編集し、矛盾する曲線部分は捨てて、直線的な言葉で合理的に、デジタルに説明しようとすると、「生きた円坐のことば」は単なる概念機械の冷たい部品と化し、当の本人も「機械的な言葉を語る空っぽの人工的な存在」になってしまいます。

今や現代人の多くがそうであるように、本当のことばを忘れて人工的な異形の姿となった自分自身をどうしたらいいか分からずにおびえているとき、「人間と人間が直接かかわりあう円坐」は「人生で一番怖い」ものとなりえます。

しかし、自分や他者の異形の姿と対峙して向き合い、仕合う覚悟を決めて円坐の時空に坐る時、苦痛だった他者との真剣なかかわりあいは、この世のすべての文化を生み出してきた創造的な母体としての「あなたとわたしのかかわりあい」に変容します。

今、円坐守人は、現代社会の直線時間を結界して円坐という球体の時間を開きます。

円と球は次元がひとつ違うだけの同じ場所です。

円坐守人は、自分が開いた円坐の中で、我々人間の「元の姿と元のことば」を見つめ、敬意を払い、かかわりあいます。

円坐という仕事が「ふるさとに帰ること」であり、「ふるさと円坐街道」や「相聞円坐」の名称を持つのは、以上のような事実認識によっています。

西暦2025年の早春3月、口承即興円坐影舞 有無ノ一坐は、直線時間の現代社会を生きる方々との「きくみるはなすかかわりあう」ご縁を祝賀し、「未ニ観門前稽古 逢坂千代崎 千夜十二夜聞く稽古」を開催いたします。

よろしければぜひお目にかかりましょう。

口承即興円坐影舞 有無ノ一坐 橋本久仁彦



生きたる永久(とわ)が人に成る
円影未二の花道は
目には見えない円坐道
あなたと歩く門前の
千代の御崎の柿の木亭
頬染め辿る言の葉は
難波の国の逢坂の
ふたりを映す蓮の露