第七回 円坐影舞 阿波のうた

< 第七回 円坐影舞 阿波のうた>

日 時 2月19日(木曜日)10時30分~17時
会 場 「三軒家」徳島市応神町東貞方字貞光
参会費 1万円
守 人 橋本久仁彦 松岡弘子 橋本仁美
主 催 武市有紀江 中香苗
申 込 enzabutai@bca.bai.ne.jp 橋本まで

口承即興円坐影舞未二観 有無ノ一坐
 WEBサイト https://umunoichiza.link/ 
 Facebookページ http://facebook.com/yukyuhitohir

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この場で出会った者同士が向き合い繰り広げる円坐舞台。
やめられない止まらないカッパえびせん状態です。
遠慮しない、感じたことは言うし、伝える。
他の場所では、なかなかじっくり深く向き合えない。
私は生きて、生かされ、生かして、巡ってる!
毎回楽しみだぁ!今年も宜しくお願いします。

武市 有紀江(こうちぇん)

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♪阿波の鳴門か 音戸の瀬戸か♪
これは古い船頭歌ですが、激しい潮流で有名な海峡を並べその凄まじい景色を歌ったフレーズです。
「円坐影舞阿波のうた」へ向かう時は、いつも渦潮の発生している鳴門海峡を渡ります。

徳島は、古くは阿波国といいました。
「阿」は始まりという字で、阿波とは、波の始まりとなります。
阿波といい始める前は、「イの国」とも呼ばれていました。
古事記を読み解き、国生みは淡路島と阿波周辺から始まったという説もあり、
産業(粟)の発祥地として阿波忌部氏は、現在の千葉県房総半島の安房(あわ)など各地へ産業を伝えたと考えられています。
こうちぇんは、ぱっと円坐の命名を思いつきました。
土地の歴史や背景をまるで知っているかのような、ピッタリの命名です。

今年最初の「円坐影舞阿波のうた」は、2月19日木曜日の開催です。
前回はひとみちゃんのご縁で、秋山英俊さんが香川の三豊から「円坐影舞阿波のうた」に駆けつけ、ご参加くださいました。
そうして、阿波のうたから「秋山英俊氏と辿る有無ノ一坐の台湾ふるさと円坐街道」が生まれ、
9月20日から23日の秋のお彼岸に、3泊4日で開催が決定いたしました。
どちらもご縁をお待ちしています。

松岡弘子

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「家族の団欒」というものにずっと憧れています。
祖父母、両親妹と一緒に暮らしていた子どもの頃も結婚して核家族で暮らしている今も、
家族の団欒って感じじゃないんよな。と、この前考えた時があって、、
そしたら不意に 阿波のうたに集い、
坐ったり、舞ったりしているみんなが浮かび上がってきました。
そうか、血が繋がったり一緒に生活をしたりでなくても
阿波のうたで出会った人達は家族って思っていいんちゃうん?って、そう思いました。
「縁あって、、」 こういうことちゃうん? って、
思ったら 子どもが何かすごい発見をした時のように、無邪気に嬉しくなりました。
2月19日に出会えるご縁を楽しみにしています。

中 香苗

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人生はすべて過ぎ去るものでできている。この年になるまで生きるとそれが分かる。
そして円坐とは、すべて過ぎ去るものの中で、ただひとつ過ぎ去らないものの場づくりだ。
この年になるまで生きたのでやっとそれが分かる。
「阿波とは波の始まり」波の始まりは常に始まりのままで過ぎ去らない。
「出会った者同士が向き合い繰り広げる縁坐舞台。他の場所ではじっくり深く向き合えない」
向き合うのは過ぎ去らないあなたとわたしだ。
「阿波のうたで出会った人達は家族と思っていいんちゃうん?」
その通り。「やめられない、止まらない」円坐家族は過ぎ去ることがない。

橋本久仁彦

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音楽ライブは楽しいし、音楽でつながった仲間ってかけがえないのだけど
逆に言うとその楽しさ以上には踏み込めない。音楽よりその先には踏み込まない。
踏み込んでしまったら“楽しく”音楽ができなくなるから。でもその楽しい音楽ってなんだろう。
雰囲気が悪くなってしまうと、「方向性のちがい」といって解散してしまったりする。

前回の阿波のうたでは香川三豊の臼杵さんにお声がけいただいてはじまった「ホタルのお祭り」での
ライブのご縁で知り合い、PA(音響)さんとしてとってもお世話になった秋山さんが来てくださいました。
ひょんなことから、あ、円坐来られませんか?!って言ったら「いきます」といってくれて。

円坐に来てもらえるっていうのはめっちゃ嬉しいです。実は‥円坐は音楽以上のセッションだからです。
音楽は世界をひとつにするけど、“音楽仲間”から超えられない壁も同時にあります。そこを突破できた嬉しさでした。
じっくりといろいろなやりとりが交わされ秋山さんのご縁が深い土地・台湾へ一緒に円坐街道の旅にいくことになりました!
仲良しの延長にある展開ではなく、仲良しだったとしても行かないようなところへ行くのが円坐の面白さやなぁと思います。
円坐を通して命がかかるところへもいける間柄になれていくのは、最高です。
仲良しよりも互いのことを知っている他人、家族以上に的確に踏み込んでくる他人。
他の何にも属さない比べようのない相手、好き嫌いを超えた唯一無二の関係になってゆきます。
ご一緒しましょう、おもしろいよ!!

橋本仁美

橋本久仁彦よりあらためて挨拶文

来週2月19日は、徳島市で第7回目の開催となる「円坐影舞阿波のうた」です。

ネット社会と資本主義によって「集団主義」に変質した「個人主義」は、我々に精神的な孤立をもたらしています。
円坐は、現代の情報社会では希少価値になってしまった「他者と本当にかかわりあって一緒に生きてゆく」人間関係を生み出す現場です。

「第7回円坐影舞阿波のうた」の挨拶文に掲げられた橋本仁美の文章は、円坐の本質をシンプルに表現しています。
「仲良しの延長にある展開ではなく、仲良しだったとしても行かないようなところへ行くのが円坐の面白さ」
「円坐を通して命がかかるところへもいける間柄になれていく」
「仲良しよりも互いのことを知っている他人、家族以上に的確に踏み込んでくる他人」
「他の何にも属さない比べようのない相手、好き嫌いを超えた唯一無二の関係」

橋本仁美が自分の言葉で率直に記したこのメッセージは、情報に飽和した我々現代人の多くが心の底では憧れていながら、具体的にそれを生きることができないでいる未知の人間関係の存在を示唆しています。

「円坐」は我々現代人にとって、まだ経験したことのない未知の人間関係なのです。

現在67歳の僕にとっては、13歳で父と死別し、母の苦しみを知って、生老病死を超える「本物の人間関係」を志し、カール・ロジャーズのカウンセリングとエンカウンターグループに出会い、高校で「教えない授業」を実践し、仏教や瞑想を求めてインドに向かい、ファシリテーターやセラピストとして生きてきた人生の、最終的な帰結が「円坐」です。

近年、他者との人間関係を、「フォロワーの数」や「集団的ワーク」や「専門家のノウハウ」に変換してコンテンツ化し、「安全に」「効率的に」人間関係を消費する「パッケージ・コミュニケーション」が宣伝され、多くの人々が惹きつけられています。

生身で他者とかかわりあう唯一無二の精神現象を、パッケージやテクニックとしてとらえるようになった現代社会では、円坐に坐る人々はマイノリティです。

我々円坐守人もマイノリティです。

ここで言う「マイノリティ」とは「少数派」のことではなく、たった一人のあなたとわたし、唯一無二の個と個が生み出す「本物のかかわりあい」を生きている「普遍的で、世界的な人々」のことです。

それは、たったひとりのあなたとわたしが、誰も代わりのいない絶対的な「個」と「個」として、この世界の尊厳を代表してかかわりあっているという、驚愕の事実のことなのです。

<「円坐影舞阿波のうた」宣言>

円坐に坐る人は、純粋な意識になり、唯一の個になる。
そしてこの現代世界に対して、真剣に向き合って生きる個性になる。
もし円坐が、唯一の個と個のかかわりあいではなく、ノウハウやワークになって社会に従属するなら、我々は純粋な意識と独自性を失う。
そして集団的で平均的な思考に支配されてしまう。

円坐守人の仕事とは、個人を群衆から峻別して、唯一無二の個性と気高さを認めること。
政治も、国家も、宗教も、円坐の中では実体を持たない。
それらは死んだ概念でしかないから。

知性化した専門家による効率的なグループワークが、集団的な無意識を拡大する。
純粋な意識による真剣なかかわりあいは、人を唯一無二の個人にする。

唯一無二の「個」としてかかわりあうこと。
それは強風の中で強靭に踊る一本の松の木。
それは太陽の光を浴びて美と尊厳に輝く山の頂。
それは一匹の獅子の峡谷に響き渡る力強い咆哮。
「人間関係の専門家」が準備した「安全なやり方」に従う群衆は「羊」になる。

個と個の、未知のかかわりあいの代わりに、集団の予定調和のワークが、個人を社会の部品にする。
「安全」が事前に保障され、保障に「安心」して無意識になり、集団に従属していく。

すると、彼は「危険」ではなくなっていく。
彼は他者にとってまったく「無害」になってしまう。

無害になった彼には、自分の「従属性」や「隷属性」を打ち破ることができない。
やがて、彼は自分の隷属性を美化し、合理化して、集団に従属する「ワーク」を人々に教え始める。

円坐は、唯一無二の「個」と「個」のかかわりあいであり、どんな従属性も持たず、何者にも隷属しない。
すべての子供は「個」として生まれる。

しかし、従属性を打ち破って、「個」として尊厳とともに死ぬ大人は少ない。
純粋な個として生まれ、唯一の個性として生き、人々と全身全霊でかかわりあって、生の全体とひとつになり、実存の尊厳とともに死んでゆく。

それが、円坐という人生態度である。
つかの間の誕生と死の間で、真剣に円坐に坐る人々は、夜空の星たちのような、高貴で意識的な「個」になってゆく。

「個」であるとは、社会集団の無意識的な空気に対して、対峙し、仕合い、反逆する精神であるということ。
対峙し、仕合い、反逆する精神でない限り、我々は純粋な「個」ではなく、唯一無二の個性でもない。
対峙し、仕合い、反逆する精神でない限り、わたしはこの社会の中で、あなたと一緒に本当にリアルに生きることはできない。

円坐とは、「個」と「個」であるあなたとわたしが出会ってひとつになり、生死を超えて一緒に生きていくという、現代社会の効率化や同質化、機械化の「空気」に対して反逆する精神のことである。

橋本久仁彦