「農業円坐竹林鼎談」逐語記録

「讃岐三豊の農業円坐守人」臼杵英樹氏と有無ノ一坐が香川県三豊市の臼杵さんのタケノコ畑で行った
「農業円坐竹林鼎談」の記録を順次公開いたします。

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臼杵英樹さんは「生産者の顔が見える自然有機農業」を日本で初めて編み出し、実現したパイオニアです。
臼杵さんの仕事は「起業モデル」や「会議」や「ノウハウ」から生まれたのではありません。

個人的にご縁のあったあるお母さんの
「アレルギーで苦しむ子供に安心して食べさせることができる野菜があったら・・」
という「思い」が臼杵さんの心の中心に届いたことからその仕事が始まりました。

お母さん方の思いに応えるべく試行錯誤を重ねついに辿り着いたのが
「生産者の顔が見え」「消費者の顔も見える」
「生産者と消費者の間に生きて血の通った人間関係」を生み出す農業の形でした。

臼杵さんの仕事や人間関係のすべては、
現在社会で流通している「ビジネス」や「心理学的な人間関係」の考え方とは、まったく異なった経験と思考から生まれています。

縁あって出会った人に真剣に対峙して
「自分自身の魂に筋を通す関わり」を断固として行い、それを生き切る態度。

臼杵さんと行動を共にすると、その態度、その姿勢が臼杵さんの「スキル」などではなく、
「臼杵英樹」という存在そのものであることがよく分かります。

しかし、仕事が評判になり、年間売り上げが億を越える大金になると、ノウハウを知りたがる人々が群がります。
根本的に動機や目的が異なる人々との「共同事業」はやがて破綻します。

臼杵さんと奥様と息子さんの三人だけになって、一度は農業をやめようと思ったそうですが、血の通った人間関係と農作物が相互作用する有機農業の仕事をやはり自分はやりたいと、
文字通り残りの命を削って一家三人で挑戦している時に、円坐を通じて臼杵さんと我々有無ノ一坐は出逢ったのでした。

現代になって、ひとり一人の人間の存在やお金といったものの正体は「エネルギー」であるという考えが普及しています。

だから人も物も同じ「エネルギー」で出来ていて、
すべての現象の基礎はエネルギーという電気的物質であると子どもたちにも教えるようになりました。

物質がすべてを作っており、人間や他の生命存在は死んだら物質原子となり、素粒子になって、物質エネルギーとして宇宙に拡散するという思考を無自覚に受け入れた我々の社会は、
エネルギー効率、すなわち物質的利潤を人間の本質より優先する電気的機械文明を生み出しました。

かつて実存哲学者マルティン・ブーバーは、
唯一無二の存在としての相互の敬意に基づいた本来の人間関係を「我と汝」と表現し、
相手を物質化して支配する現代の対象操作的な関係を「我とそれ」と名付けて区別しました。

1970年代には、まだ一般の人々にとっても理解可能であったブーバーの言葉と区別は、現在では死語になっています。
「我とそれ」と名付けられた物質的人間関係はこの50年で強化され、「私と情報」という情報操作関係に発展します。

今や「情報を効率的に集めて」自分の欲求を満足させる操作的人間関係が現代人にとっての常識になりました。

我々現代人は何をするにしてもより効率的な「我とそれ」=「私と情報」の関係性を求めています。
我々はできるだけ効率的に、時間をかけずに「本当の自分」を求めます。
早く見つけて「有効利用」するためです。

我々は「大切な自分のエネルギー」を無駄使いせず、傷つかず痛みなく、できるだけ気持ちの良い「他者との関係や場を作るスキル」を学びたがっています。

しかし、われわれが本当に人としてじっくりと真剣に、互いの内側と外側に徹底した注意を向け、
人生を投入して他者と対峙することができれば、ひとつの貴重な発見に導かれます。

自分自身の言葉で考える勇気を持ち、
その勇気があって初めて実際に確認できる「唯一無二の人生」の意味を、ひそかに探求している人々が存在するという発見です。

情報を集めて損得を判断する我々の日常そのものが
「情報を与えられて作られた機械的なパターン」
であることを自覚できる「自発的で自由な人々」が存在するのです。

かつて「敬意」や「尊厳」という言葉が直接的に示していた
「物質概念では記述できない人間の本質」を、再び直接知覚として体験することは可能です。

なぜなら我々は自己の意識の深みにおいて、
おのれの生命や人生が一定の情報に解消され、消費されることに抵抗しており、
情報の特徴である「価値の相対化」によって「我と汝」という絶対的実存と尊厳が体験できなくなることに抵抗しているからです。

「人間の本質」を直接体験することは可能ですが、世界を強力に実効支配している物質主義的状況を見抜き、自分の足で立つためには、

「我と汝」への意志を持つふたりの人間の真剣な「ぶつかり稽古」と、
その現場での正確な「私とあなた」の研究が必要不可欠であると思います。

なぜなら我々現代人の多くは意識の別の深みにおいて、
「私は自分の足で立つ力をすでに持っているからひとりで生きて行ける。
だからこの私に対して、私が許す以上に嫌な思いをさせたり傷つけたりするものは存在してはならない。

この世界に何が起こっても私に関係ないから私のせいではない。私は責任を取らない。むしろ私はこの世界の被害者である」
と100パーセント信じているからです。

口承即興円坐影舞未二観 有無ノ一坐 
はしもとくにひこ