未二関 稽古会

来月の第四土曜日から始まります「未二関稽古会」のご案内です。

オンラインで人とつながりテレワークやリモートで働く時代は油断していると、気持ちが萎えたり、コロナ禍の自粛生活や老後の隠居生活のような精神状態になり、容易に病院の患者に甘んじたり、家族に隷属してしまいます。

そのような生活を続けていると、自分(達)の中だけで完結してしまい、妄想はどんどん膨らみます。

そんな肥大に平行して、思い通りにならないことも積み重なり、相手や他者と関わることが煩わしくなり、理由もなく怒りが湧き当たり散らして、最終的には相手を無視してしまいます。

周囲に対しては優しくていい人なのに、ずっと無視され続けていると、こちらも流石に疲弊しますが、驚くべきは、本人から本体が離れて、毎夜毎夜鬼が出歩くような、そんな在りようになります。

家族人間が孤独に弱いのではなく、社会も世の中も便利になり過ぎて、いつでもどこでも送れる快適な生活が、他者との生身の関わりあいを奪い、じわじわ人を優しく苦しめます。

聞く稽古で、いまもずっと余韻が残っている未ニ観があります。さいごの十二夜で、聞く稽古の前の父子円坐から翌日の石切稽古会まで、一年間佐賀から通って来られたゆうちゃんこと濱田裕子さんと、節目の未ニ観をさせていただきました。

ゆうちゃんとわたしは、佐賀と大阪で物理的に離れてて、生き様も価値観も全く違うけれども、家族だけではどうしようもなくもさびしい局面で一人で戦うときも孤独ではない、そんな関係になってて、一瞬にして作り上げる嘘の仲良しこよしの空気感を出す人たちを吹き飛ぶす迫力が、ゆうちゃんとの間に生まれました。生きている間は、ゆうちゃんとの人間関係の全貌など到底みえませんが、この関わりあいこそが、円坐です。

今回の未ニ関稽古は、実際の円坐での稽古です。

 他者と関われない・・
 自分がわからない
 円坐に坐るのに二の足を踏んでる方など

少人数での1年間の門前稽古会です。未二観を礎に、他者と関わりあう稽古です。
円坐の稽古と円坐の練習(演習)との違いを言葉で説明すると、わかりにくいかもしれませんが、以下の通りです。

すぐに情報として円坐で起きていることを先まわりして参考書やコーチから学習してしまうこに長けてしまうと、相手と向き合い対峙し関わる時間をすっ飛ばしますが、やがてやり方がわかってしまうと、円坐からは離れてしまいます。そこに敬意はなく、守破離もなく、円坐もなくなります。

 円坐で生涯関わりあう

という円坐稽古の礎を取り戻すべく一念発起いたしました。生涯稽古と仰った方がいます。その言葉をいまも信じています。
ご縁をお待ちしています。

有無ノ一坐 松岡弘子

☆★

3月28日から毎月第4日曜日に、有無ノ一坐の「生駒石切400日間円坐」が始まりますが、その前日の第4土曜日の夜に「大阪千代崎 未二関(みにかん:未二の関)千夜稽古」を13回に渡って開催します。

未二観の「観」が、今回は「関」になっています。

未二観の前身は、僕のライフワークだった「ミニカウンセリング(ミニカン)」という対象観察的な傾聴の技法でした。

長年実践を重ねるうちに、ミニカウンセリングは、カウンセラーとクライアントや、聞き手と話し手といった「行為する者とされる者」という二元的分別を超え、「かかわりあうふたり」という一元的世界の営みになりました。

「かかわりあうふたり」とは、ふたりでひとつの生きた全体世界のことです。
円坐は「みんなでひとつの生きた全体世界に坐る」というシンプルな人間の営みです。

「最初からひとつの全体なので切り離せないふたり」が「丸ごと聞きあう営み」を、「未二観(みにかん)」と名付けました。

「傾聴ワーク」や「対話ワーク」「人間関係のプロセスを促進するファシリテーション」といった現代社会の技巧的アプローチは、人間が物質の原子モデルのように個々バラバラであり、「孤立している」ことを前提として成立しています。
未二観ではその前提が180度反転して、「唯一無二のあなたとわたしのつながり」が前提となった「生命的かかわりあい」です。

かかわりあったふたりはひとつの全体となって切り離せない、という事実から生まれる「向き合い、対峙し、仕合う」円坐の姿勢は、「お互いに相仕合う存在の状態」であると表現できます。

円坐でかかわりあった人々との具体的な経験を念頭に置いて言葉を選ぶなら、それは「愛仕合う存在の状態」であると言えます。

愛仕合う存在の状態であるとき、自分を相手の態度やその場の状況から切り離して「客観的な観察者」になることは不可能です。

観察者になったとたんに、観るものと観られるものに分裂した二元世界の一部、あるいは断片的な意識になり、ひとつの全体として愛仕合う存在の状態は消え去ります。

では「愛仕合う存在の状態」の中での「観察」は、成立するのでしょうか。
「愛仕合う存在の状態の観察」は、物質世界をその一部とするもっと大きな世界の中で成立します。

もし「観察」という科学用語にこだわって表現するならば、それは「対象観察」ではなく、徹底した「参与観察」になります。徹底した参与観察とは、相手と自分の存在を丸ごと全部含む「全体的な観察」のことです。

それは対象的、客観的な観察ではなく、相手と直接一緒に生きたあとで初めて意識化できる有機的、生命的、内面的な観察です。 
この「愛仕合う存在の状態」は、個人の属性としての「愛する能力」や、「相手や出来事を受け入れる肯定的態度」ではありません。それは、「そこへ入ってゆけば明らかになる別の存在状態」のことです。

我々は、現代の社会生活によって囲い込まれている物質的、個人主義的世界の境界を踏み越えて、唯一無二の実存的な世界に入ってゆくことができます。
そこには、人間同士が互いの「個であること」の尊厳を認識して、深く愛仕合う状態が、自然な環境として当たり前に広がっています。

現在の状態から、実存的な愛仕合う状態に移行するために必要なことは、愛せる人間になるために気づいたり成長したりすることではまったくなく、我々が正しいと信じて握りしめている物質的世界観を手放し、技巧的な思考態度をやめることです。

聴き方や対話の仕方といった、我々が物質的世界で孤立していることを前提とした技巧的アプローチを用いて「相手とコミュニケーションする」行為は、正しくて良いことであるように見えます。

しかし、近づいてよく見てみると、「技巧的な方法で成立させるコミュニケーション」という行為そのものが、「我々が孤立した存在である」という暗黙の前提を強化していることが分かります。

あらかじめ前提された思考態度から作為的に作られた「コミュ二ケーションのワーク」は、「人とかかわりあうためには人為的な技巧とそれを扱う専門家が必要だ」という無意識的な信念を育てます。

それはワークの前提である「人間は孤立した存在でしかない」という現代の物質的世界観の再生産です。
こうして、技巧的、機械的な思考態度と物質的世界観の拡大が、ワークという作為の無意識的な目的になります。

ワークの影響を強く受けた人々は、資本主義経済社会に組み込まれて、次々と商品開発され、流通ラインに乗ってくる○○メソッドや○○対話法の提供を受け、模造品としての一時的で人工的な人間関係を消費し続けることになります。

僕が円坐の現場から皆さんにお伝えしたいことは、相手がいわゆる「発達障害の5歳児」であっても、あるいは認知症の診断を受けて老人ホームに隔離された人々であっても、「人とかかわりあう状態」は、一瞬で成立するということです。
目の前の人とかかわりあいになるかどうかは、その人とかかわりあう状況世界に入るかどうかという気持ちひとつで決まることだからです。

今回の千夜稽古が、「未二関=未二の世界に入る関所」と名のっているのはそのためです。
誰でも一歩踏み出せば、ただちにかかわりあい、愛仕合う世界に入ります。
保育園の5歳児も、老人ホームの人々も、円坐の現場に坐れば技巧を離れた実存世界に向かいます。

しかし、ワークやセラピーで一般化された技巧的思考態度でかかわりあおうとすると、「技巧的に人とかかわりあわなければならない状況」が意図的に作り出されます。
そして、本来自然で純粋であった「ひととかかわりあうこと」は、「計量的で、段階的な、時間がかかる技巧的プロセス」であるという信念が広がります。

現代社会で生きる我々にとって、「他者とかかわりあうこと」が、いかにも大変そうにみえるのは、そう見えるように人為的な現実が作り出されているからです。
その背景には、我々現代人が神格化して信仰している物質的世界観と資本主義体制、経済主義があります。

少し荒っぽいですが、わかりやすく表現すると、我々現代人の多くは「自分の経済状態」がもっとも大切で、物質を扱うように簡単確実ではなく、わずらわしいだけの他者とのかかわりあいは、無い方がいいのです。

それでも人間である限り、他者とのふれあいが欲しくなるので、傾聴や対話や気づきなど、部分的で楽なかかわりだけで済むワークショップに参加したり、自分の私生活と経済を確保した上で、趣味的に「人を癒す」仕事ができれば満足だと思っているのです。

資本主義社会に適応して生きる我々の多くが、心理学やコミュニケーションのワークを通じて理解したつもりになっている「他者とのふれあい」や「あなたとわたしのかかわりあい」は、実は我々がまだまったく知らない別の領域へ通じる「関所」です。

現代という最高度に物質的な時代状況を生きる人間が、心の奥底で、無意識的に、強烈に欲しがっているのは、他者や世界とのリアルで生きた本物のかかわりあいです。 

それがなければ「この世にわたしが生きている」ことの本当の実感が完成しないからです。

人類の歴史上、最も物質的で利己的になった現代人の欲求に応じて、次々と差し出される人工的な人間関係を消費して人生を終えるのではなく、かかわりあったひとり一人の他者との間に、自分の存在のすべてをかけて深い絆を生み出すことができます。

そして、この世で真剣にかかわりあった「他者」という奇跡的な存在と、生涯愛仕合って生きる別の位相、もうひとつの生の領域に通じる「未ニの関」があります。

我々はその生の領域を「空の位相」と呼んでいます。
円坐でかかわり続けている生涯の仲間達の存在に深謝しつつ、この一文を記します。

口承即興円坐影舞 
有無ノ一坐 橋本久仁彦

< 未ニ関 稽古会 >

日時:すべて第4土曜日 19時15分~21時半

第1回  3月21日
第2回  4月25日
第3回  5月23日
第4回  6月27日
第5回  7月25日
第6回  8月22日
第7回  9月28日
第8回  10月24日
第9回  11月21日
第10回 12月28日
第11回 2027年1月23日
第12回 2027年2月27日
第13回 2027年3月27日  

場所:大阪市西区千代崎 有無ノ一坐スタジオ
会費:全十三夜参会 65,000円 (一夜 6,000円) 
守人 :有無ノ一坐
お問合せ・申込み:enzabutai@bca.bai.ne.jp 橋本久仁彦 
有無ノ一坐https://umunoichiza.link