神無月 相聞茶堂

朝晩すっかり涼しくなりました。

秋雨が降る日も、
秋晴れの日も、

柿の実があかく色づく様に、夕焼け空に風が吹き抜けていきます。

今朝、高い脚立に登って、
枝を一本一本手でふれて、
話をする様に、
枝に剪定鋏を入れていました。
葉と葉の間の光や風が変化する瞬間、
そんな時はかならず、どこかでいつも誰かが、
みつめている気がします。

それは、
決して怖いものではなく、
妄想とかでもありません。

ひとりの時も、
必ずいつもすぐそばにいる、
そんな存在感の様なものです。

もし、その存在感の様なものに、
名前があるなら、
ご縁というのがしっくりきます。

ご縁というのは、
本当に不思議なもので、
それは偶然とかいうものではありません。

円坐道を歩き続けているのは、
なぜなのだろうと、
ふと、考える事がありました。

それは自分の力や、
技術を磨くためとかではなく、

ご縁あっての仕事という気がして、
各地を歩き続けている気がします。

人と人の間を見ず、
事実を過去として無かったことにしたり、
私利や私欲を満たすために我を通すなら、
それは、道どころか、
お門違いな気がして、ただむなしいです。

たとえ、
人生が苦しかったとしても、
人と人が円になり相坐ると、

相聞歌のように、
響いてくるものがあります。

目の前の人に対する、
その人の姿勢や様だけではなく、

人の中や環境の中であらはれる、
その人の背景や周囲の音や声が、
誰かの足跡や痕跡が・・

時空を越え、
こちらに向かって、
あらはれてきたり
聞こえてくるのが、

道を歩く、
というものなのかもしれない、
と、そんな気がしました。

先日は、
新潟長岡を歩きました。
いい人と歩けば祭りです。
いい人達と巡り会いました。

ふと、
瞽女さんにゆかりのある、
お寺さんをお訪ねした際に、

そのお寺のご住職さんが、
お出かけになられる直前にも関わらず、
本堂にまでご案内してくださいました。

ご住職さんはその後すぐに、
お出かけになられましたが、
本堂でじっと木彫りの仏像をみつめていると、
ひとつひとつ木彫りされている手や、
背中やお顔がふと視えてくるような、
そんな不思議な気がして参りました。

仏像の横には、直筆で、

 お持ち帰り
 ご希望の方
 お声がけ下さい。

と、御名前と共に書かかれたかみがあり、
実際いただいて持ち帰りませんでしたが、

なぜか、いま、
心の中には、この仏像とかみがあります。

心の中にずっとある、
この方の木彫りの仏像と、
手書きのかみの中の言葉。

それは、ひょっとしたら、
ご縁というものなのかもしれない、
と、そんな、気がしています。

今月の神無月 相聞茶堂は、
10月27日水曜日に開催いたします。

ご縁ある皆様の、
お越しを心よりお待ちしております。

松岡弘子


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◇ 開催日時:10月27日(水) 10時〜17時
◇ 茶堂場所: 石切相聞亭
◇ 円坐守人:橋本久仁彦 松岡弘子 橋本悠
◇ 内容:未二観・影舞・円坐・円坐舞台
◇ 会費:一万円
◇ 申込:soumon.enza@gmail.com 松岡

◇ご挨拶:
相聞茶堂は、令和二年七月から三カ月間『浦堂 きらら』で、九月からは『高槻町 うらら』の古民家へ移り開催して参りました。令和三年一月より『石切 相聞亭』にて開催いたしております。

「相聞」とは、カウンセリングやコーチング、セラピーではありません。知識による人から人への受け渡し教育でもありません。誰もが乞い乞われる万葉の相聞歌のような、魂の呼応です。
「茶堂」とは、日本の喫茶店のルーツです。四国の各地の村境にある小屋のことで、生活をする中で世代を問わず語り合ったり旅人をお接待する憩いの場であったり、四国の各所には数多く残っています。
その「茶堂」を場所としてそこから呼び覚まされる生活の言葉、智慧による願われた言葉が、我々に生まれる瞬間、生活に深く根ざした、思議することあるべからず世界へと道がひらける、そんな、ちいさなわたしを通じて、世界の歴史全体を包み込むような空間がこの世にひとつ、あればいいなあとおもいます。

歴史を越える心にふれるには、人に会うことでしか始まらないと思います。
人の語る言葉をそのまま聞くということが、たとえ発語がなくとも、聞こえてくる言葉をそのまま聞くということがほとんど無くなりつつある現代だからこそ語りの言葉には他者への敬意と土地への誇りも、同時に、不可欠だと痛感しています。

わたしたちはこれまで長い歴史の中でいのちの事を生命とは呼ばず、寿命と呼んで参りました。寿というものをいただいて、命そのまま生きているわけですが、現代は個人の生命を私有化してしまい、大変苦しんでいます。寿命とは一体なんだろうかと思うのです。生活に根ざした、向こうからの呼び声のような、魂の言葉のような、寿命とはそんな願いのような気がしてなりません。
そこで「相聞茶堂」という見えない小屋の棟を上げ、その土地の舞台となり、皆様と共に、この現代でいうお接待の形を試みてみたいと思います。

同時に、この願いというものは、いつの世にも願われてきた「呼び声」でもある、という気がしています。
では、どうぞ宜しくお願い申し上げます。


松岡弘子