第四回 道即是空相聞円坐

6月12日水曜日、おかげさまをもちまして、
第三回 道即是空相聞円坐を博多で開催いたしました。

このたびは関東や関西から遠路お越しいただき、
博多在住の吉次潤さんもご同道いただきまして、
誠にありがとうございました。

博多の地で厚き御恩をいただいて円坐の後、
有志でふりかえりもしました。

夜、みっちーと福岡空港に到着し、
飛行機のフライト待ちのソファで、
「次へ向かって円坐続けよう!」
と、約束しました。

ところがみっちーは、
成田空港に到着した途端混乱し始め、
言葉の出ない状態になったそうです。

そのみっちーとこの10日間、
ふたりの間で往復書簡を重ねに重ねました。

そうして次の第四番開催へ向けて、
案内文(第一報)が生まれました。

「為と書と何ぞ能く一々相符せん」
萩の幕末の志士、吉田松蔭の言葉ですが、
まさしく円坐の案内文を書き為すことと、
同じです。

みっちーは、博多へ移り住む前の七年間、
埼玉の熊谷で暮らしていた歴史があるそうです。

お父様がご存命だったころ、
熊谷から西多摩の実家へは、
車で往復していたそうです。

何も終わっていないのに、
終わらせてしまい・・
その場その場で終わらせてきてしまった、
過去をひとつひとつ取り戻してゆく旅が、
道即是空相聞円坐なのだと見えてきました。

ご縁の第十八番円坐札所まで、
相聞円坐巡礼の旅は続きます。

これは当たり前のことですが、
人情と人肌の温もりを忘れず、
血や涙を流す人間として立ち上がり、
大切な仲間と共に目の前の相手に踏み込むと、

やがてふるさととふるさとが繋がって広がり、
大きな新しい懐かしい場所になっていきます。

道即是空相聞円坐は、蓼科、静岡、博多と、
ご縁深き日本の各地で開催してきています。

次回は熊谷です。
どんな所だろう。
未知の所へ向かってもう動き始めています。

みなさまのご縁を心よりお待ちしています。

有無ノ一坐 松岡弘子

〈 第四回 道即是空相聞円坐 〉

日時:令和6年9月1日(日)10時〜16時半頃
場所:埼玉県熊谷市内
会場:申込みいただいた方に後ほど詳細をお知らせします
守人:松岡弘子・金子実千枝
会費:9,000円
申込micchi6@au.com 金子実千枝まで

第四回 道即是空相聞円坐のご案内です。

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守人よりご挨拶
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おかげさまで、第三回道即是空相聞円坐を博多市民センターにて
開催することが出来ました。ご参加くださった皆さま、本当にありがとうございました。

円坐でこれまで坐ってきて、私は、自分の言葉で相手と話すことや、自分から言葉に出すことがとても少なくて、松岡弘子さんに「みっちーは円坐では話さない」と言われ続けてきました。

円坐守人として場を仕切る時ですら、まず、何が起こるかを予測して、自分自身が動くよりも早く周囲の状況に先ず反応しようとしてしまい自分の中で起こっているのに、今ある感じを直ぐに飛ばしてしまい、相手との間で交わしていた言葉も消し去ってしまう、ということをわたしは度々しています。

「何かが起こる前に先に反応しようとする自分って何なんだ!!なにそれ!!」と、自分で書いてても、おかしなことを自分はしていると思うが、キョロキョロして凄く様子をみてしまう。

第三回道即是空相聞円坐の守人として円坐が始まり、今回わたしは初めて円坐で、自分が真っ先に口を開きました。

会場近くに住んでいたことや会場に来る前に住んでいたビルを朝見に行ったことを話しました。

わたしは、37歳の6月から3年半の間、博多に住んでいました。
ところが円坐で博多にいたことは、今まで一度も触れて来ませんでした。わたしは、歴史に触れずその場その場で終わらせて来ました。

人との関わりや起こる事は、都合よく、終わりにはならないのに、人と摩擦が起こることが嫌なわたしは、摩擦を避ける動きを直ぐやります。その場にずっと居ないと分からないことや物事が見えてこないものも、了解出来ることで自分の中で対処して、その場を離れてしまいます。

わたしは「金子実千枝」という自分を知りたいのに、自分だけでは成立しない人との関わりや、家族、仲間、友だちと過ごした場所など、大事な背景となっているものを、凄く気になるのに、遠ざけてしまいます。

わたしは博多の地で今までずっと遠ざけていた出来事があります。
大事な存在の人と過ごした博多での時間を封印していました。

摩擦が起こらないように、仲良くなりたい相手に合わせる事が多くなって、自分が望んでいる様に動けなくなってしまい、物事が上手く回らなくなったことを受け止められず、心身のバランスが取れなくなりました。今もまだ十分に、博多の地で起きた事や人との関係に触れきれてません。

その博多の地で道即是空相聞円坐にご参加下さった皆さんから、
わたしに沢山の投げかけ、届けてくださった言葉があります。

「みっちーと円坐に今までも一緒に坐ってきたけれど、今回初めて聞いた。」、「みっちー、人と関われるようになりたいって言ってるけど、友だち一杯いるでしょ。」、「友だち、友だちって、何度も出てきたけど、友だちの顔、姿が見えてこない。みっちーにとって友だちとは。」、「そっか、そっかって、了解している感じって、何!。」、「しっかり金子実千枝がいる。」、「みっちーは、言葉を上書きしている。」、「みっちーは、構築して言葉をかき消す。」、「過去のことなんてないから。」、「見るって、全部ひっくるめてのこと。」、「わたしは、みっちーのお母さんではない。」、「みっちーは、自分を叩いてくれる人を求めている。」、「みっちーさん、今、何のことだったか復唱してみて。」

ほかにもまだまだあります。
しっかりと、わたしに呼びかけてわたしに向いて届けて下さっていた言葉です。
なのに、わたしは、わたしからは、相手へと、呼びかけてくださっている方へわたしの言葉を届けきれませんでした。
私は、わたしへ届けてくださっている言葉なのに、情報として聞いてしまいました。私が、分かる様に整理してしまう。
自分は全く悪気なくサラリと・・・。
それは、不味いのに、わたしは色んな場面でやってしまう。

それでは、人と関われない
でも、わたしは、わたしの言葉で、相手と会話をしたり、人と付き合えるわたしを探求していきたい。

わたしの言葉も相手の言葉も、二人の間で出てくる。
大事な人や大切な人の存在と、本当に居るという事実を知ることで、わたしの暮らしにも、自分の足で前へ進んでいく力にもなる。

わからない私を知りたいと求めるのは、そんな人間関係を欲しているからです。

自分の中には色々と潜んでいるわたしがいて、漏れ出る言葉で相手に汲み取って貰ったり、起こってる事実を変える、ずらす言葉を使い、事実をぼやかし相手の存在を消してしまう事も良くやってしまう。言葉は、その人の存在や姿が届いてもくるのに、言葉を簡単に変えてしまうとは、何をしているのか。

道即是空相聞円坐の現場で、起こっている事実を一つ一つ押さえ、
そして事実をズラしてしまう自分を押さえていく事。

ここに向かわなければ、また人の存在を簡単に消し、自分を手放す事を繰り返してしまう。それは不味い。
届けて貰った言葉に対して、わたしの言葉で相手に届けることも、
自分一人だけのことでは出来ないのかもしれません。

道即是空相聞円坐の現場で、ご一緒くださる皆さまとの間で
身を引き現場を離れてしまうことなく、何度も前へ前へと言葉を包まずに向かっていきたい。

次回の道即是空相聞円坐は、博多に続きまして、ご縁ある地「埼玉県熊谷市」にて、円坐守人松岡弘子さんと共に、第四回道即是空相聞円坐を開催して参りたいと思います。

円坐をご一緒くださる皆さまのお越しと、ご縁を心より、お待ちしております。宜しくお願いいたします。

金子実千枝