ひとくぅ虎馬 〜人喰ぅトラウマ?!〜 円坐舞台
ひとくぅ虎馬 〜人喰ぅトラウマ?!〜 円坐舞台 開催要項
開催日時:令和4年9月25日(日)
開催時間:10時00分 〜 17時00分
参加費 :一万円
開催場所:石切相聞亭
円坐守人:有無ノ一坐 松岡弘子・橋本仁美
申し込み/お問い合わせ:
soumon.enza@gmail.com 松岡
hitomi.hashimoto918@gmail.com 橋本
みなさま
「円坐ひとひろ」
橋本仁美さんと松岡弘子は、
1986年9月18日五黄の寅と、
1966年8月15日丙午の年に、
この世に生まれました。
干支を聞くだけで、
眉をしかめる方も、
昔は随分いました。
いまは随分減りましたが、
五黄の寅と午年生まれで、
ふたりあわせて、
トラウマという事になり、
なんだか物騒な感じです(笑)
「ならいっそ、
ひとみとくぅで、
ひとくぅトラウマ円坐にしよう!」
ということになり、
そんな成り行きで、
円坐を開催することになりました。
トラウマは、
もとは傷という意味だそうです。
いまでは、
恐怖・ショック・異常経験などによる精神的な傷。それ以後の行動に強い制限や影響を及ぼす。
とありますが、
むしろ、トラウマの精神は、
闘う上で必要な防衛力だという気がします。
攻撃力だけては決して闘えないし、
攻撃と防衛は、
する側、される側という具合に、
ふたつに分けるものではないと思います。
攻撃と防衛は実は同じ事であり、
同時に起きている事だと考えます。
あの人は攻撃的だとか、
この人は防衛的だとか、
イメージで判断する人がいますが、
果たしてあっているのでしょうか。
人間関係のなかで起きている事は、
つきあうなかであらはれる事です。
それを人に、
あの人は防衛的だとか、
この人は攻撃的だとか、
言ってるのを見聞きするたび、
おかしな事だなあとつくづく感じます。
自分が関わっている以上、
自分との関係で起きているのは事実です。
いとも容易く消し去ってしまっては、
それでは相手も立つ瀬がありません。
本当に闘った事がない人は、
人間関係を無視し、人のせいにして、
自分の防衛本能だと開き直ったり、
攻撃的で暴力的だと人を非難したり、
そのように選択し思い込んだ事実は、
考えないようにしているのだと思います。
ふと、
中島みゆきさんの歌を思い出します。
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
暗い水の流れに打たれながら
魚たちのぼってゆく
光ってるのは傷ついてはがれかけた
鱗が揺れるから
いっそ水の流れに身を任せ
流れ落ちてしまえば楽なのにね
やせこけて そんなにやせこけて
魚たちのぼってゆく
勝つか負けるかそれはわからない
それでもとにかく闘いの
出場通知を抱きしめて
あいつは海になりました
中島みゆき 作詞作曲 「ファイト!」より
一体、なにが光輝いてるのでしょう。
きっとそれは傷ではないでしょうか。
傷があればこそです。
そして、
傷(きず)を消し去らなければ、
やがてそれは絆(きずな)になります。
絆ができる前に逃げ出してしまえば、
たしかに傷つかずにすみますが、
絆はうまれないという、不思議。
スターリンの恐怖政治のように、ないのにあるかのように、傷つくのをおそれて守るのは、いわゆるトラウマ=精神的傷の言語ですが、親子関係や生い立ちに収束させる世界観と、
かけがえのない自分以外の何かを守るために、本質を分けあった誰かも守るために闘うことは、全く違うと思います。
この世になぜ生まれ、
ひとは未知の海(ふるさと)へと泳ぎ出していくのか、
その謎が、歳を重ねてわかってくるようになりました。
それでは、ご縁をお待ちしております。
有無ノ一坐 松岡弘子
有無ノ一坐ひとみ、五黄・丙寅(ごおう・ひのえとら)年女
有無ノ一坐くぅ、七赤・丙午(ひのえうま)
干支とかに詳しいわけではないですが
ちょこっとネットで調べたところによると、
五黄の寅は、周囲を圧倒する強大なパワーをもってるとのこと。
結婚したら夫の命を縮めるとか(笑)
また丙午の年は火災が多いとかだんなを焼き殺すとか・・。
言い伝えがすごい。
二人とも超強烈な星回り。
そして今年、
2022年は五黄の寅年で超パワフルな年なんだそうな。
そんな強烈な今年を丙(ひのえ=火)おそろいの
燃え盛る二人で祝して?!円坐舞台をひらきます
ひとくぅ虎馬 〜人喰うトラウマ?!〜 円坐舞台
ご案内
トラウマって、一般的には悪いことです。
持ってていいもんじゃない。
人を喰うっていうのも聞こえがわるい。
だけど、わたしはトラウマと
人を喰うことで
生きておりまする。
先日の長崎での円坐でもそんな話になりました。
人生の途中で敗北し、最悪だったけど、
それがあったからこそ、もうそっちへ行くのは金輪際絶対いやなんだ
ってことがわかって
この先を生きるためのブレない物差しができる。
精神的に傷ついたひどい経験なのでトラウマともいえるんだけど、
トラウマは、次の展開への扉でもあります。
長崎の前には、四万十に行ってきました。
四万十に暮らしてたときは良い人たちとの出会いもたくさんたくさんありましたが
ここまでの人生で一番きつい時期を過ごした場所でもありました。
そんな場所を仲間とめぐると
いままで一人で見ていたはずの景色のなかに
仲間がいて
寂しく聞いていた音も生き生きとしてきて
一人で暮らしていたかつての風景はそのままに
辛かった思い出が刷新され
仲間とともに見る景色となり
喜びとともに未来に新たに向かう景色に
生まれ変わりました。
ふれたくないと足が遠のいていたのに、
またいつでも帰ってこられる”ふるさと”
(最近うちらのあいだではやりの^^)
になりました。
・
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そして私は人を喰って生きています。
円坐でどうやって生活してるの?
と北海道でも聞かれて
関係性が食べ物に〜とか答えたけれど、
やっぱり、仲間と、良い意味でお互いを食いあってると思います。
アンパンマンの「僕の顔をあげるよ」みたいな感じかな。
因縁の相手!と思える人に対しても、
恨みはありませんよと偽善者のふりをして避けると、
その人とともに居た自分をも見失い死んだままになってしまうけど
ちゃんと対峙し、
お互いを食え(関われ)ば
死なせた自分は蘇り
相手も自分の中に生きはじめます。
遠く離れてても、そこに仲間や因縁の相手がいるなら、
物理的な距離は関係なくなるし、
その人目指して生きる力が湧いてきます。
この言葉は何回も言いたくなってしまいます。
ということで、
このたびで四万十もご近所になり、
長崎もぐっと近くなりました。
仲間も因縁の相手も、
生きる糧以前の、自分が生きる意味です。
じゃそういう間柄ってどうやってできるのか?
気を使って終わらず
利害関係で終わらず
保身で終わらず
失敗してもめげず
気分や利害、うっとおしさ、面倒くささを
踏み越えて
どんな相手であれ、ご縁あった方のもとへ訪ねていくことです。
自分を踏み越えたその先には道連れ合い、ともに生きていく人が待っています。
お互いに手に余る自分を持ち合って。
背中を預けあって。
生き切って参りましょう。
有無ノ一坐
橋本仁美