関ケ原古戦場円坐

<守人挨拶>

みなさま 来る9月19~20日、 岐阜県不破郡関ケ原町古戦場にて、三度目の関ケ原古戦場円坐を開催いたします。
次回、関ケ原古戦場円坐を開催するかどうかは今は、全くわかりません。ただ、こればかりは、やってみないとわからないから、一同、関ケ原古戦場円坐に向かいます。
やらない人は一生やらない人生における本当を賭けた戦いです。
早いもので、関ケ原古戦場円坐まであと1カ月となりました。今年も募集人員15名です。
既にお問い合わせや参戦申し込みもいただいております。 定員まであと数名、募集いたします。
今年は、 参戦円坐武将の方々と、 有無の一坐との仕合でもあります。サウンドロッヂ伊吹の道場で稽古をし、 関ケ原古戦場円坐舞台にて仕合います。 

各地の円坐守人武将方へ 関ケ原古戦場へご結集くださいます様、守人一同、ご参戦のほど関ケ原にてお待ち申し上げております。

有無の一坐  松岡弘子

<守人挨拶>

前回は四万十から帰ってきてわけもわからぬまま参加し、なにかがほかの場とは違うと感じました。
そのため今回企画側でいるにあたって半端な覚悟ではいけないと思っていましたが知らぬまに半端になってたことを先日仲間に言われて知りました。楽しいことが続くと勘違いしますがそのとき「あぁ仲良しの一坐ではなかったのだった」と再確認します。

有無の一坐にいるのはこわいです。離れたら楽になれると思いその衝動に駆られることもあります。しかしこわいからこそそこに求めてるものがあることもわかります。もはや家族や友達という関係性はなく、いく道が重なっているから一緒にいるだけです。
今でも関ケ原には何があるのかはっきりとはわかっていません。わからないですが仲間に背を預けてむかいたいと思います。

有無の一坐 橋本仁美

関ケ原古戦場円坐

合戦日時   令和三年九月十九日・二十日
合戦場    岐阜県不破郡関ヶ原古戦場
参陣費用   四万円
陣容    東西円坐守人武将十五名
申込先   松岡弘子 soumon.enza@gmail.com
関ヶ原古戦場円坐舞台守人 橋本久仁彦 松岡弘子 橋本仁美 橋本悠

<守人挨拶>

関ヶ原古戦場円坐は今年で三年目を迎えます。
関ヶ原での二日間の全体が「口承即興~円坐影舞 有無の一坐」と参集された円坐守人社中(関ヶ原では「円坐守人武将」と呼称)が対峙し、仕合う円坐舞台です。
関ヶ原は我々有無の一坐にとっては最前線にあたる仕合場であり、船ならば波をかき分け前進する「船首」の位置にある円坐舞台であると言えます。

かねて申し上げてきたように、円坐舞台には「うまくいくやり方」はありません。先日、伊勢市から対談円坐舞台に参加された方が以下のように言われました。
「私にとって円坐舞台は土俵に見えています。私はここにぶつかり稽古をしに来ているのであって、何かをもらうためにきているのではありません」

「ぶつかる」とは相手という唯一無二の存在の「全体の手ごたえ」を、一瞬でこの身に刻むことであると思います。

影舞の指の先の先。未二観のことばの「てにをは」すなわち最期の息までの辿り。円坐守人が円坐舞台を結界する「宣言」という時機。これらはすべて一瞬に起こる「ぶつかり」です。そして「ぶつかる」とは、実は自分自身が今までの生き方で作ってきた人生の正体にぶつかることに他なりません。

円坐舞台とは私自身の有り様のことです。ゆえに対峙する坐衆との間に映る日常とは異なる自分のありのままの姿と「様」が渦の様にくり返し我が身に迫ります。対峙し仕合えば必然的に、自分が生きてきた姿勢と、この世界について「思考する」態度が100パーセント「受動的」であったという事実を発見します。

「本当のこと」は耳に心地よい「他人の言葉」で覆われ自分自身からも隠されています。「本当のこと」に対する「緩衝器」としてのことばの用い方を見抜き、自覚することは必須ですがこれは僕にとっては一人では不可能でした。他者にぶつかる切実さと、互いに殻を破って出遇うという実りが必要でした。

他者に「本当にふれる」という出来事は、ただ受動的・自動的に生きている世界には存在しないと思います。本当にある人にふれる「ふれの発動」はいつでもこの宇宙で初めての出来事です。
その時「わたし」という存在は100パーセント能動的であるという新たな事実になります。100パーセントとは 「ひとつである」 ということですから中間段階はありません。

100パーセントであり唯一無二の全体である自分自身との対峙は圧力を備えた洞察のスパイラルとなります。音を立ててまわり始めた渦は人生全体の渦巻となります。
この「渦」の中心が「道」であり、縁深き坐衆仲間に恵まれれば円坐舞台という「花道」になります。
我々の人生の彼岸の大切な節目として、今年も関ヶ原古戦場円坐の舞台守人を務めて参りたいと思います。

有無の一坐  橋本久仁彦

<守人挨拶>

災害や疫病など命の危険が常識となりつつある世の中、皆様は変わらずお元気でしょうか。
案内文を書くのは久々で、こうして皆様に言葉を送るのにも懐かしささえ感じています。

今年の夏も大阪は暑くしょっちゅう熱中症気味な僕は、加えて災害や病気などで命の危険を感じつつも今回の関ヶ原には向かおうと思います。今回で3回目となる関ヶ原古戦場円坐です。

今までは僕たち側の関ヶ原や人間、命に対する想いや姿勢を突き通して来ましたが、今回僕はその姿勢を更に鋭角に、皆様へ向けたいと思っています。今回もし初めて来てくださる人がいれば容赦が出来ないかもしれませんが、前回前々回来てくださった方に向ける角度で、その2回で見せて来た僕の本質を関ヶ原で皆様へぶつけたいと思います。

過去2回、僕は「自分の命をかける」「死んだら終わりなのにそれでも叶えたい現実がある」ということを、実際にそのやりとりが行われた場所に来て肌で感じ、自分はそこで何を想うのか、そしてその身で人に向かう事を主観に置いて関ヶ原へ来ていました。今回もそれは変わりませんが、関ヶ原に集う人たちは本物や真剣、覚悟や自分自身などそう言ったことに想いを寄せているように感じました。
僕にとってそれらの言葉は全て「本番」という言葉に集約されてしまいます。

関ヶ原に行く理由は先ほど述べた通りですが、それに加え今回は僕なりの本番というもので皆様に向かえたらと思います。何故ならそれが僕の中で唯一自分自身の為に命をかけ得るものであり、僕が人生を生きる上で欠かせない「本質」といっても違和感のないものだからです。

今までの関ヶ原が本番じゃなかったのかと言われればそうではありませんが、それはあくまで僕の本番であり、その本番に対する姿勢を見せるという形でしか皆さんを巻き込んでいませんでした。
もし僕の思う「本番」というものが皆様が関ヶ原へ来る理由に少しでも近しいものであるならば、それをぶつける事は関ヶ原でこそ相応しいと考えていますし、過去に関ヶ原に参加してくださった方ならば耐えられるとも感じています。

想い、時間、確認、忘却、後悔、喜び
たとえ毎回同じ事でも全ては何度も重ねるものです。
繰り返すのではなくどれだけ一枚の層が薄くとも重ねて重ねて少しでも何か、または何処かへ近づけるよう、自分が自分を諦めず遂に倒れた場所が目指した所である為に、生きている間は自分に忠実に少しでも足掻いていきましょう。

誰が来るかは分かりませんが、来たる人を待っています。

有無の一坐 橋本 悠