「居ると居る、なるとなった」津屋崎前稽古編

今週14日の日曜日に福岡県福津市津屋崎で、
「居ると居る、なるとなった」前稽古編が開催されます
津屋崎での円坐舞台の成立について記します。

「前稽古」という名のりで行うことは初めてですが、
聞く稽古、添う稽古、対峙する稽古、仕合う稽古、すなわち円坐舞台を行うことになります。

これらを一般化して言えば「人と関わる稽古」です。
我々円坐守人の立場で言えば稽古も本番もないただのひとつの「円坐舞台」です。

この円坐舞台の仕事の中で、円坐舞台の時空間がリアルタイムにひとつの舞いの形になることがあります。
それは真剣で誠実で美しい舞台芸能であり、現在では「影舞」という名称を持つようになりました。

円坐を一言でいえば、日常の我々の本当の姿や正体がそのまま「稽古」になったものであると言えます。
我々の「本当の姿・生き様・人間としての正体」は、真剣と敬意と尊厳がひとつに融けあったリアルタイムの関係性の中でしか体験することができません。

この「リアルタイムの関係性」に立ち会い、体験を共にする円坐の坐衆と、円坐が置かれた特定の場所には高い圧と熱が発生します。

円坐の圧のレベルや熱量を示す既成の言葉がないので、
舞台用語を新たに考えて「対峙する・発火する・仕合う」などと呼んでいます。

我々はさらに、円坐や円坐守人としての「仕事」を説明するために「人生芸能」という新しい理念を立ち上げました。
この新しい理念の役割は以下のようなものです。

すなわち、「人生芸能」としての円坐や円坐守人の仕事は、
「メソッド」や「スキル」や「ツール」「プログラム」や「ワーク」あるいは「ファシリテーション」といった言葉が示している人工知能的な思考態度や価値観とは、明確に異なった立場に立っていることを常に、誰に対しても鮮明にすることです。

円坐や円坐守人が人工知能的知性や機械的人間観とはまったく異なる次元に立っているという事実は、円坐舞台の現場では一点の疑いもなく明瞭です。

しかし我々現代人にとって、人工知能ネットワーク上の情報空間と情報操作は、もはや必須の生活スキルになっています。

円坐守人として生きる我々が、電子情報として「円坐舞台」を言語化、図式化、一般化すると、円坐舞台や円坐守人の本質である「圧と熱と生きた空間」は抜き去られてしまいます。

そしてPCを通過できるような単なる知的情報に編集され、純粋な熱存在である「生命」は消えてしまいます。

PCを通過できるような言葉と概念で表現するならば、
「円坐舞台と円坐守人」とは、
「生命的、精神的な土着の立場を堅持して行う人生芸能の仕事」であると言えます。

現代とは人工知能、すなわち機械的知能が、世界の都市部でほぼ完全な支配力を獲得した歴史的な大変化の時代です。

このような時代に、「生命と精神の土着としての人間であること」を生き抜く円坐守人であるためには、
「再び生命と精神になろう」とする真剣な意志をもつ必要があります。

なぜなら我々は現代人として現代社会に生まれ落ち、
現代社会が要請する体制的組織教育を受けて育っているからです。

「生駒石切円坐守人十六番稽古」は、「生命と精神の土着としての円坐守人」を育てるための一年間に渡る円坐舞台稽古です。

今回の福岡、津屋崎での「居ると居る、なるとなった前稽古編」が成立したのは、津屋崎に住む二人の女性の「圧と熱」が大阪に住む僕の元に届いたからです。

熱は熱に呼応してシンクロし、たとえ物理的にどんなに距離が離れていても同時発火する生命現象になってゆきます。

「・・9月はお世話になり、ありがとうございました。
お観音様、波折宮、玉乃井での時間は私の中で留まり
流れていく日常と重なって、一瞬一瞬の私をつくっているように感じています。

2回の円坐を終え、津屋崎生活の節目ができたように思います。
柴田富美子さんの生きる、生き続ける姿を焼き付けました。

安倍文範さんの死は、私の中で生となり、一緒に生きています。
9月の円坐「居る 会う 話す」でのくにちゃんの「居る」が強烈に印象に残りました。

こんなに心身を緩めながら、目の前に居る人にそのままで真剣に向き合うんやって。
受け止める、癒す、支える、共感といったこととは異なる、
「あなたと会えた、出会えた」結ばれる縁に感謝し、その縁を真の意味で結ぶ姿が忘れられない。

博多、津屋崎2回の円坐を経て、ようやく、私が私自身のためにくにちゃんにもう一度会いたいと思っています。
くにちゃんの「居る」を感じ取りたいです。
穂乃香ちゃんも同じように感じています。

参加者が私達だけでもいい。
私たちの気持ちを第一にして、開きたいと。

津屋崎で円坐を開くことはできますでしょうか?
どうぞご検討ください。」

以上の言葉の中に示された方々や土地の「名前」は、
円坐舞台の上では生死や住む場所を越えて常に臨在する「人と土地」の「生きている名前」です。

我々有無ノ一坐が九州津屋崎へ向かい、「会いたい人に会いにゆく」のは、

上記の文を書いたお二人の真剣なお気持ちに加えて、
お二人の心の中に確かに生きている「人々と土地」が我々を強い力で呼び寄せるからです。

有無ノ一坐の仕事のひとつである「この世の名残り旅の一坐ふるさと円坐街道」という名のりは、非常に強く広く大きな力に支えられ、背中を押されて日々出発し続けるこの世を越えた「未知」の、しかし愛に「満ち」た冒険の旅を示す名前なのです。

口承即興円影未二 
有無ノ一坐 橋本久仁彦

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とき:1月14日(日)
時間:10時〜17時
場所:日々の家
料金:5000円
持ち物:水筒、昼食
申込:氏名、連絡先(メール、電話番号)を記入の上 金氣穂乃香( honoka@kurashino-tonya.net )まで申込みください。

2024年6月19、20日に津屋崎に有無ノ一坐をお迎えして円坐を開きます。
居合わせた人が円になって坐り、一人一人「居る」を感じます。

居合わせた者同士、その場で湧き上がること、起こることに身を任せ、
ただただなっていく様を眺めます。

言葉になって語られるものもあれば、眼差しや頷きによって伝わっていくものもあるでしょう。
今回は6月の円坐(本稽古)前の前稽古です。前稽古といってもこれも本番。
6月を待たずして、新年早々にご一緒できたら幸いです。

都郷なび 金氣穂乃香